クかしい病人があったら、見て貰おう」
この話をしてから、花房は病人をちょいちょい見るようになったのであった。そして翁の満足を贏《か》ち得ることも折々あった。
翁の医学は Hufeland《フウフェランド》 の内科を主としたもので、その頃もう古くなって用立たないことが多かった。そこで翁は新しい翻訳書を幾らか見るようにしていた。素《も》とフウフェランドは蘭訳《らんやく》の書を先輩の日本訳の書に引き較べて見たのであるが、新しい蘭書を得ることが容易《たやす》くなかったのと、多くの障碍《しょうがい》を凌《しの》いで横文《おうぶん》の書を読もうとする程の気力がなかったのとの為《た》めに、昔読み馴れた書でない洋書を読むことを、翁は面倒がって、とうとう翻訳書ばかり見るようになったのである。ところが、その翻訳書の数《かず》が多くないのに、善い訳は少ないので、翁の新しい医学の上の智識には頗《すこぶ》る不十分な処がある。
防腐外科なんぞは、翁は分っている積りでも、実際本当には分からなかった。丁寧に消毒した手を有合《ありあわせ》の手拭《てぬぐい》で拭《ふ》くような事が、いつまでも止まなかった。
これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coup《クウ》 〔d'oe&il〕《ドヨイユ》 であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬる。それが花房にはどう見ても分からなかった。
只これだけなら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、実はそうでは無い。翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。
翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以《もっ》て病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫《もてあそ》んでいる時もその通りである。茶を啜《すす》っている時もその通りである。
花房学士は何かしたい事|若《もし》くはする筈《はず》の事があって、それをせずに姑《しばら》く病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。〔Inte'ressant〕《エントレッサン》 の病症でなくては厭《あ》き足らなく思う。又|偶々《たまたま》所謂《いわゆる》興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論《もちろん》発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華の夢になっている時もある。それかと思うと、その頃|碧巌《へきがん》を見たり無門関《むもんかん》を見たりしていたので、禅定《ぜんじょう》めいた contemplatif《コンタンプラチイフ》 な観念になっている時もある。とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。
そして花房はその分からない或物が何物だということを、強《し》いて分からせようともしなかった。唯《ただ》或時はその或物を幸福というものだと考えて見たり、或時はそれを希望ということに結び付けて見たりする。その癖又それを得れば成功で、失えば失敗だというような処までは追求しなかったのである。
しかしこの或物が父に無いということだけは、花房も疾《とっ》くに気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。そのうち、熊沢蕃山《くまざわばんざん》の書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳《くしけず》ったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生《へいぜい》を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好《い》い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場《しゅくば》の医者たるに安んじている父の 〔re'signation〕《レジニアション》 の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気《おぼろげ》ながら見えて来た。そしてその時から遽《にわか》に父を尊敬する念を生じた。
実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここに存《そん》じていたのである。
花房は大学を卒業して官吏になって、
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