カズイスチカ
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)花房《はなぶさ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年々|宿根《しゅくこん》が残っていて

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔d'oe&il〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 父が開業をしていたので、花房《はなぶさ》医学士は卒業する少し前から、休課に父の許《もと》へ来ている間は、代診の真似事《まねごと》をしていた。
 花房の父の診療所は大千住《おおせんじゅ》にあったが、小金井きみ子という女が「千住の家」というものを書いて、委《くわ》しくこの家の事を叙述しているから、loco《ロコ》 citato《チタト》 としてここには贅《ぜい》せない。Monet《モネエ》 なんぞは同じ池に同じ水草の生《は》えている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人に味《あじわ》わせるから、一枚見るよりは較べて見る方が面白い。それは巧妙な芸術家の事である。同じモデルの写生を下手《へた》に繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆《せいひつ》をするのは、読者に感謝して貰《もら》っても好《い》い。
 尤《もっと》もきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒方某《おがたぼう》は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩《たかがり》の時、千住で小休みをする度毎《たびごと》に、緒方の家が御用を承わることに極《き》まっていた。花房の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。蓋《ふた》に御鋪物《おんしきもの》と書いてある。御鋪物とは将軍の鋪物である。今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。
 火事にも逢《あ》わずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、頗《すこ》ぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀《こくたん》のように光っていた。硝子《ガラス》の器を載せた春慶塗《しゅんけいぬり》の卓や、白いシイツを掩《おお》うた診察用の寝台《ねだい》が、この柱と異様なコントラストをなしていた。
 この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚《ひなだな》のような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前の庭であった。病人を見て疲れると、この髯《ひげ》の長い翁《おきな》は、目を棚の上の盆栽に移して、私《ひそ》かに自ら娯《たのし》むのであった。
 待合《まちあい》にしてある次の間には幾ら病人が溜《た》まっていても、翁は小さい煙管《きせる》で雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽を眺《なが》めていた。
 午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。その時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這入《はい》って、煎茶《せんちゃ》を飲む。中年の頃、石州流の茶をしていたのが、晩年に国を去って東京に出た頃から碾茶《ひきちゃ》を止《や》めて、煎茶を飲むことにした。盆栽と煎茶とが翁の道楽であった。
 この北向きの室は、家じゅうで一番狭い間で、三畳敷である。何の手入もしないに、年々|宿根《しゅくこん》が残っていて、秋海棠《しゅうかいどう》が敷居と平らに育った。その直ぐ向うは木槿《もくげ》の生垣《いけがき》で、垣の内側には疎《まば》らに高い棕櫚《しゅろ》が立っていた。
 花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、先《ま》ずこの三畳で煎茶を飲ませられる。当時八犬伝に読み耽《ふけ》っていた花房は、これをお父うさんの「三茶の礼」と名づけていた。
 翁が特に愛していた、蝦蟇出《がまで》という朱泥《しゅでい》の急須《きゅうす》がある。径《わたり》二寸もあろうかと思われる、小さい急須の代赭色《たいしゃいろ》の膚《はだえ》に Pemphigus《ペンフィグス》 という水泡《すいほう》のような、大小種々の疣《いぼ》が出来ている。多分焼く時に出来損ねたのであろう。この蝦蟇出の急須に絹糸の切屑《きりくず》のように細かくよじれた、暗緑色の宇治茶を入れて、それに冷ました湯を注《つ》いで、暫《しばら》く待っていて、茶碗《ちゃわん》に滴《た》らす。茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちている。花房はそれを舐《な》めさせられるのである。
 甘みは微《かす》かで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。
 或日こう云う対坐の時、花房が云った。
「お父うさん。わたくしも大分理窟だけは覚えました。少しお手伝をしましょうか」
「そうじゃろう。理窟はわしよりはえらいに違いない。む
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