板。これは夏のことであった。瓶有村《かめありむら》の百姓が来て、倅《せがれ》が一枚板になったから、来て見て貰いたいと云った。佐藤が色々容態を問うて見ても、只繰り返して一枚板になったというばかりで、その外にはなんにも言わない。言うすべを知らないのであろう。翁は聞いて、丁度暑中休みで帰っていた花房に、なんだか分からないが、余り珍らしい話だから、往って見る気は無いかと云った。
花房は別に面白い事があろうとも思わないが、訴えの詞《ことば》に多少の好奇心を動かされないでもない。とにかく自分が行くことにした。
蒸暑い日の日盛りに、車で風を切って行くのは、却《かえっ》て内にいるよりは好い心持であった。田と田との間に、堤のように高く築き上げてある、長い長い畷道《なわてみち》を、汗を拭きながら挽《ひ》いて行く定吉に「暑かろうなあ」と云えば「なあに、寝ていたって、暑いのは同じ事でさあ」と云う。一本一本の榛《はん》の木から起る蝉《せみ》の声に、空気の全体が微《かす》かに顫《ふる》えているようである。
三時頃に病家に著いた。杉の生垣《いけがき》の切れた処に、柴折戸《しおりど》のような一枚の扉《とびら》を取り付けた門を這入ると、土を堅く踏み固めた、広い庭がある。穀物を扱う処である。乾き切った黄いろい土の上に日が一ぱいに照っている。狭く囲まれた処に這入ったので、蝉の声が耳を塞《ふさ》ぎたい程やかましく聞える。その外には何の物音もない。村じゅうが午休《ひるやす》みをしている時刻なのである。
庭の向うに、横に長方形に立ててある藁葺《わらぶき》の家が、建具を悉《ことごと》くはずして、開け放ってある。東京近在の百姓家の常で、向って右に台所や土間が取ってあって左の可なり広い処を畳敷にしてあるのが、只一目に見渡される。
縁側なしに造った家の敷居、鴨居《かもい》から柱、天井、壁、畳まで、bitume《ビチュウム》 の勝った画のように、濃淡種々の茶褐色に染まっている。正面の背景になっている、濃い褐色に光っている戸棚の板戸の前に、煎餅布団《せんべいぶとん》を敷いて、病人が寝かしてある。家族の男女が三四人、涅槃図《ねはんず》を見たように、それを取り巻いている。まだ余りよごれていない、病人の白地の浴衣《ゆかた》が真白に、西洋の古い戦争の油画で、よく真中にかいてある白馬のように、目を刺激《しげき》するばかりで、周囲の人物も皆褐色である。
「お医者様が来ておくんなされた」
と誰やらが云ったばかりで、起《た》って出迎えようともしない。男も女も熱心に病人を目守《まも》っているらしい。
花房の背後《うしろ》に附いて来た定吉は、左の手で汗を拭きながら、提《さ》げて来た薬籠《やくろう》の風呂敷包を敷居の際《きわ》に置いて、台所の先きの井戸へ駈けて行った。直ぐにきいきいと轆轤《ろくろ》の軋《きし》る音、ざっざっと水を翻《こぼ》す音がする。
花房は暫《しばら》く敷居の前に立って、内の様子を見ていた。病人は十二三の男の子である。熱帯地方の子供かと思うように、ひどく日に焼けた膚の色が、白地の浴衣で引っ立って見える。筋肉の緊《し》まった、細く固く出来た体だということが一目で知れる。
暫く見ていた花房は、駒下駄《こまげた》を脱ぎ棄てて、一足敷居の上に上がった。その刹那《せつな》の事である。病人は釣り上げた鯉《こい》のように、煎餅布団の上で跳ね上がった。
花房は右の片足を敷居に踏み掛けたままで、はっと思って、左を床の上へ運ぶことを躊躇《ちゅうちょ》した。
横に三畳の畳を隔てて、花房が敷居に踏み掛けた足の撞突《とうとつ》が、波動を病人の体に及ぼして、微細な刺戟が猛烈な全身の痙攣《けいれん》を誘《いざな》い起したのである。
家族が皆じっとして据わっていて、起って客を迎えなかったのは、百姓の礼儀を知らない為めばかりではなかった。
診断は左の足を床の上に運ぶ時に附いてしまった。破傷風である。
花房はそっと傍《そば》に歩み寄った。そして手を触れずに、やや久しく望診していた。一枚の浴衣を、胸をあらわして著ているので、殆《ほとん》ど裸体も同じ事である。全身の筋肉が緊縮して、体は板のようになっていて、それが周囲のあらゆる微細な動揺に反応《はんおう》して、痙攣を起す。これは学術上の現症記事ではないから、一々の徴候は書かない。しかし卒業して間もない花房が、まだ頭にそっくり持っていた、内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺《わす》れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。鼻の頭に真珠を並べたように滲《し》み出している汗までが、約束通りに、遺れられずにいた。
一枚板とは実に簡にして尽した報告である。知識の私《わたくし》に累せられない、純樸《じゅんぼく》な百姓の自然の口からでなくては、こん
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