。人の借りている人情本を読む。何だか、男と女との関係が、美しい夢のように、心に浮ぶ。そして余り深い印象をも与えないで過ぎ去ってしまう。しかしその印象を受ける度毎に、その美しい夢のようなものは、容貌の立派な男女の享《う》ける福で、自分なぞには企て及ばないというような気がする。それが僕には苦痛であった。
 埴生とはやはり一しょに遊ぶ。暮春の頃であった。月曜日の午後埴生と散歩に出ると、埴生が好い処へ連れて行って遣ろうと云う。何処だと聞けば、近処の小料理屋なのである。僕はそれまで蕎麦《そば》屋や牛肉屋には行ったことがあるが、お父様に連れられて、飯を食いに王子の扇屋に這入った外、御料理という看板の掛かっている家へ這入ったことがないのだから、非道《ひど》く驚いた。
「そんな処へ君はひとりで行けるか」
「ひとりじゃあない。君と行こうというのだ」
「そりゃあ分かっている。僕がひとりというのは、大きい人に連れられずに行けるかというのだ。一体君はもう行ったことがあるのか」
「うむ。ある。此間《こないだ》行って見たのだ」
 埴生は頗《すこぶ》る得意である。二人は暖簾《のれん》を潜《くぐ》った。「いらっしゃい
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