書生が二三人覗きに来た。「よせよせ」などという声がする。上から押える手が弛《ゆる》む。僕はようよう跳ね起きて逃げ出した。その時書物の包とインク壺とをさらって来たのは、我ながら敏捷《びんしょう》であったと思った。僕はそれからは寄宿舎へは往かなかった。
 その頃僕は土曜日ごとに東先生の内から、向島のお父《とう》様の処へ泊りに行って、日曜日の夕方に帰るのであった。お父様は或る省の判任官になっておられた。僕はお父様に寄宿舎の事を話した。定めてお父様はびっくりなさるだろうと思うと、少しもびっくりなさらない。
「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けんと行かん」
 こう云って平気でおられる。そこで僕は、これも嘗《な》めなければならない辛酸の一つであったということを悟った。

      *

 十三になった。
 去年お母様がお国からお出になった。
 今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃《や》めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってか
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