ning たる素質はない。もう帰り掛に寄るのが嫌になったが、それまでの交際の惰力で、つい寄らねばならないようにせられる。ある日寄って見ると床が取ってあった。その男がいつもよりも一層うるさい挙動をする。血が頭に上って顔が赤くなっている。そしてとうとう僕にこう云った。
「君、一寸だからこの中へ這入《はい》って一しょに寝給え」
「僕は嫌だ」
「そんな事を言うものじゃない。さあ」
 僕の手を取る。彼が熱して来れば来るほど、僕の厭悪《えんお》と恐怖とは高まって来る。
「嫌だ。僕は帰る」
 こんな押問答をしているうちに、隣の部屋から声を掛ける男がある。
「だめか」
「うむ」
「そんなら応援して遣る」
 隣室から廊下に飛び出す。僕のいた部屋の破障子をがらりと開けて跳《おど》り込む。この男は粗暴な奴で、僕は初から交際しなかったのである。この男は少くも見かけの通の奴で、僕を釣った男は偽善者であった。
「長者の言うことを聴かなけりゃあ、布団|蒸《むし》にして懲《こら》して遣れ」
 手は詞と共に動いた。僕は布団を頭から被せられた。一しょう懸命になって、跳《は》ね返そうとする。上から押える。どたばたするので、
前へ 次へ
全130ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング