思っていたからである。
 向島からは遠くて通われないというので、その頃神田小川町に住まっておられた、お父様の先輩の東《あずま》先生という方の内に置いて貰って、そこから通った。
 東先生は洋行がえりで、摂生のやかましい人で、盛に肉食をせられる外には、別に贅沢《ぜいたく》はせられない。只酒を随分飲まれた。それも役所から帰って、晩の十時か十一時まで飜訳《ほんやく》なんぞをせられて、その跡で飲まれる。奥さんは女丈夫である。今から思えば、当時の大官であの位|閨門《けいもん》のおさまっていた家は少かろう。お父様は好い内に僕を置いて下すったのである。
 僕は東先生の内にいる間、性慾上の刺戟《しげき》を受けたことは少しもない。強いて記憶の糸を手繰《たぐ》って見れば、あるときこういう事があった。僕の机を置いているのは、応接所と台所との間であった。日が暮れて、まだ下女がランプを点《つ》けて来てくれない。僕はふいと立って台所に出た。そこでは書生と下女とが話をしていた。書生はこういうことを下女に説明している。女の器械は何時でも用に立つ。心持に関係せずに用に立つ。男の器械は用立つ時と用立たない時とある。好だと思
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