まだ東京の詞は慣れていないのに、話家はぺらぺらしゃべる。僕は後に西洋人の講義を聞き始めた時と同じように、一しょう懸命に注意して聴いていると、銀林は僕の顔を見て笑っている。
「どうです。分かりますかい」
「うむ。大抵分かる」
「大抵分かりゃ沢山だ」
今までしゃべっていた話家が、起《た》って腰を屈《かが》めて、高座の横から降りてしまうと、入り替って第二の話家が出て来る。「替りあいまして替り栄《ばえ》も致しません」と謙遜する。「殿方のお道楽はお女郎買でございます」と破題を置く。それから職人がうぶな男を連れて吉原へ行くという話をする。これは吉原入門ともいうべき講義である。僕は、なる程東京という処は何の知識を攫得《かくとく》するにも便利な土地だ、と感歎して聴いている。僕はこの時「おかんこを頂戴する」という奇妙な詞を覚えた。しかしこの詞には、僕はその後寄席以外では、どこでも遭遇しないから、これは僕の記憶に無用な負担を賦課した詞の一つである。
*
同じ年の十月頃、僕は本郷|壱岐坂《いきざか》にあった、独逸《ドイツ》語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと
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