その時番所址の家の中で、じいさんの声がした。
「こりい。それう持ってわやくをしちゃあいけんちゅうのに」
 僕はふいと立ち留って声のする方を見た。じいさんは胡坐《あぐら》をかいて草鞋《わらじ》を作っている。今叱ったのは、子供が藁《わら》を打つ槌《つち》を持ち出そうとしたからである。子供は槌を措《お》いておれの方を見た。じいさんもおれの方を見た。濃い褐色の皺《しわ》の寄った顔で、曲った鼻が高く、頬がこけている。目はぎょろっとしていて、白目の裡《うち》に赤い処や黄いろい処がある。じいさんが僕にこう云った。
「坊様。あんたあお父《とっ》さまとおっ母《か》さまと夜何をするか知っておりんさるかあ。あんたあ寐坊《ねぼう》じゃけえ知りんさるまあ。あははは」
 じいさんの笑う顔は実に恐ろしい顔である。子供も一しょになって、顔をくしゃくしゃにして笑うのである。
 僕は返事をせずに、逃げるように通り過ぎた。跡にはまだじいさんと子供との笑う声がしていた。
 道々じいさんの云った事を考えた。男と女とが夫婦になっていれば、その間に子供が出来るということは知っている。しかしどうして出来るか分らない。じいさんの言った
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