「はい」
 僕はしぶしぶ縁側に腰を掛けた。奥さんは不精らしく又少しいざり出て、片膝立てて、僕の側へ、体がひっ附くようにすわった。汗とお白いと髪の油との匂がする。僕は少し脇へ退《の》いた。奥さんは何故だか笑った。
「好くあなたは裔一のような子と遊んでおやんなさるのね。あんなぶあいそうな子ってありゃしません」
 奥さんは目も鼻も口も馬鹿に大きい人である。そして口が四角なように僕は感じた。
「僕は裔一君が大好です」
「わたくしはお嫌」
 奥さんは頬っぺたをおっ附けるようにして、横から僕の顔を覗《のぞ》き込む。息が顔に掛かる。その息が妙に熱いような気がする。それと同時に、僕は急に奥さんが女であるというようなことを思って、何となく恐ろしくなった。多分僕は蒼《あお》くなったであろう。
「僕は又来ます」
「あら。好いじゃありませんか」
 僕は慌《あわ》てたように起って、三つ四つお辞儀をして駈け出した。御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞《いせき》を踰《こ》して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えている砂地に、植込の高い木が、少し西へいざった影を落している。僕はそこまで駈けて行って、仰向に砂の上に寝転んだ。すぐ上の処に、凌霄《のうぜん》の燃えるような花が簇々《むらむら》と咲いている。蝉が盛んに鳴く。その外には何の音もしない。Pan の神はまだ目を醒《さ》まさない時刻である。僕はいろいろな想像をした。
 それからは、僕は裔一と話をしても、裔一の母親の事は口に出さなかった。

      *

 十五になった。
 去年の暮の試験に大|淘汰《とうた》があって、どの級からも退学になったものがあった。そしてこの犠牲の候補者は過半軟派から出た。埴生なんぞのようなちびさえ一しょに退治られたのである。
 逸見も退学した。しかしこれはつい昨今急激な軟化をして、着物の袖を長くし、袴の裾を長くし、天を指していた椶櫚《しゅろ》のような髪の毛に香油を塗っていたのであった。
 この頃僕に古賀と児島との二人の親友が出来た。
 古賀は顴骨《かんこつ》の張った、四角な、赭《あか》ら顔の大男である。安達《あだち》という美少年に特別な保護を加えている処から、服装から何から、誰が見ても硬派中の鏘々《そうそう》たるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の※[#「※」は「きへんに雨に
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