ょに悪い事をしはしないか。したなら、それを打明けて言うが好い。打明けて言って、これから先しなければ、それで好い。とにかく埴生と交際することは、これからは止《や》めねば行かぬと仰《おっし》ゃるのである。お母様が側から沼波さんもお前が悪い事をしたと云ったのではないそうだ、お前は何もしたのではあるまい、これからその埴生という子と遊ばないようにすれば好いのだと仰ゃる。
僕は恐れ入った。そして正直に埴生に、料理屋へ連れて行かれた事を話した。しかしそれが埴生の祝宴であったということだけは、言いにくいので言わなかった。
埴生と絶交するのは、余程むつかしかろうと思ったが、実際殆ど自然に事が運んだ。埴生は間も無く落第する。退学する。僕はその形迹《けいせき》を失ってしまった。
僕が洋行して帰って妻《さい》を貰ってからであった。或日の留守に、埴生庄之助という名刺を置いて行った人があった。株式の売買をしているものだと言い置いて帰ったそうだ。
*
同じ歳の夏休に向島に帰っていた。
その頃好い友達が出来た。それは和泉《いずみ》橋の東京医学校の預科に這入っている尾藤裔一《びとうえいいち》という同年位の少年であった。裔一のお父様はお邸の会計で、文案を受け持っている榛野《はんの》なんぞと同じ待遇を受けている。家もお長屋の隣同志である。
僕のお父様はお邸に近い処に、小さい地面附の家を買って、少しばかりの畠にいろいろな物を作って楽んでおられる。田圃《たんぼ》を隔てて引舟の通が見える。裔一がそこへ遊びに来るか、僕がお長屋へ往くか、大抵離れることはない。
裔一は平べったい顔の黄いろ味を帯びた、しんねりむっつりした少年で、漢学が好く出来る。菊池三渓を贔負《ひいき》にしている。僕は裔一に借りて、晴雪楼|詩鈔《ししょう》を読む。本朝虞初新誌《ほんちょうぐしょしんし》を読む。それから三渓のものが出るからというので、僕も浅草へ行って、花月新誌を買って来て読む。二人で詩を作って見る。漢文の小品を書いて見る。先ずそんな事をして遊ぶのである。
裔一は小さい道徳家である。埴生と話をするには、僕は遣り放しで、少しも自分を拘束するようなことは無かったのだが、裔一と何か話していて、少しでも野卑な詞、猥褻《わいせつ》な詞などが出ようものなら、彼はむきになって怒るのである。彼の想像では、人は進士及第をし
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