頭痛ばかりではなくて、動悸《どうき》がする。僕はそれからはめったにそんな事をしたことはない。つまり僕は内から促されてしたのでなくて、入智慧でしたので、附焼刃《つけやきば》でしたのだから、だめであったと見える。
或る日曜日に僕は向島の内へ帰った。帰って見ると、お父様がいつもと違って烟《けむ》たい顔をして黙っておられる。お母様も心配らしい様子で、僕に優しい詞を掛けたいのを控えてお出《いで》なさるようだ。元気好く帰って行った僕は拍子抜がして、暫く二親の顔を見競べていた。
お父様が、烟草《たばこ》を呑んでいた烟管《きせる》で、常よりひどく灰吹をはたいて、口を切られた。お父様は巻烟草は上《あが》らない。いつも雲井という烟草を上るに極まっていたのである。さてお話を聞いて見ると、僕の罪悪とも思わなかった罪悪が、お父様の耳に入ったのである。それはかの手に関係する事ではない。埴生との交際の事である。
同じ学校の上の級に沼波《ぬなみ》というのがあった。僕は顔も知らないが、先方では僕と埴生との狗児《ちんころ》のように遊んでいるのを可笑《おかし》がって見ていたものと見える。この沼波の保証人が向島にいて、お父様の碁の友達であった。そこでお父様はこういう事を聞かれたのである。
金井は寄宿舎じゅうで一番小さい。それに学課は好く出来るそうだ。その友達に埴生というのがいる。これも相応に出来る。しかし二人の性質はまるで違う。金井は落着いた少年で、これからぐんぐん伸びる人だと思うが、埴生は早熟した才子で、鋭敏過ぎていて、前途が覚束《おぼつか》ない。二人はひどく仲を好くして、一しょに遊んでいるようだが、それは外に相手がないから、小さい同志で遊ぶのであろう。ところがこの頃になって、金井の為めには、埴生との交際が頗《すこぶ》る危険になったようである。埴生は金井より二つ位年上であろう。それが江戸の町に育ったものだから、都会の悪影響を受けている。近頃ひとりで料理屋に行って、女中共におだてられるのを面白がっているのを見たものがある。酒も呑み始めたらしい。尤《もっと》も甚しいのは、或る楊弓店の女に帯を買って遣ったということである。あれは堕落してしまうかも知れない。どうぞ金井が一しょに堕落しないように、引き分けて遣りたいものだということを、沼波が保証人に話したのである。
お父様はこの話をして、何か埴生と一し
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