二人と見える。
「あんたあゆうべ愛宕《あたご》の山へ行きんさったろうがの」
「※[#「※」は「ごんべんに虚」、21−11]《うそ》を言いんさんな」
「いいや。何でも行きんさったちゅう事じゃ」
 こういうような問答をしていると、今一人の男が側から口を出した。
「あそこにゃあ、朝行って見ると、いろいろな物が落ちておるげな」
 跡は笑声になった。僕は穢《きたな》い物に障《さわ》ったような心持がして、踊を見るのを止《や》めて、内へ帰った。

      *

 十一になった。
 お父様が東京へ連れて出て下すった。お母様は跡に残ってお出《いで》なすった。いつも手伝に来る婆あさんが越して来て、一しょにいるのである。少し立てば、跡から行くということであった。多分家屋敷が売れるまで残ってお出なすったのであろう。
 旧藩の殿様のお邸が向島《むこうじま》にある。お父様はそこのお長屋のあいているのにはいって、婆あさんを一人雇って、御飯を焚《た》かせて暮らしてお出になる。
 お父様は毎日出て、晩になってお帰になる。僕の行く学校をも捜して下さるということであった。お父様がお出掛になると、二十《はたち》ばかりの上《かみ》さんが勝手口へ来て、前掛を膨らませて帰って行く。これは婆あさんが米を盗んで、娘に持たせて遣るのであった。後にお母様がお出になって、この事が知れて、婆あさんは逐《お》い出された。僕は余程ぼんやりした小僧であった。
 一しょに遊んでくれる子供もない。家職のものの息子で、年が二つばかり下なのがいたが、初て逢った日に、お邸の池の鯉《こい》を釣ろうと云ったので、嫌《いや》になって一しょに遊ばない事にした。家扶《かふ》の娘の十二三になるのを頭《かしら》にして、娘が二三人いたが、僕を見ると遠い処から指ざしなんぞをして、※[#「※」は「くちへんに耳」、22−13]《ささや》きあって笑ったり何かする。これも嫌な女どもだと思った。
 御殿のお次に行って見る。家従というものが二三人控えている。大抵|烟草《たばこ》を飲んで雑談をしている。おれがいても、別に邪魔にもしない。そこで色々な事を聞いた。
 最も屡《しばし》ば話の中に出て来るのは吉原という地名と奥山という地名とである。吉原は彼等の常に夢みている天国である。そしてその天国の荘厳が、幾分かお邸の力で保たれているということである。家令はお邸の金を高い
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