に行く。壱岐坂《いきざか》時代の修行が大いに用立つ。
 八月二十四日に横浜で舟に乗った。とうとう妻を持たずに出立したのである。

      *

 金井君は或夜ここまで書いた。内じゅうが寝静まっている。雨戸の外は五月雨《さみだれ》である。庭の植込に降る雨の、鈍い柔な音の間々《あいだあいだ》に、亜鉛《あえん》の樋《とい》を走る水のちゃらちゃらという声がする。西片町の通は往来《ゆきき》が絶えて、傘を打つ点滴も聞えず、ぬかるみに踏《ふ》み込む足駄も響かない。
 金井君は腕組をして考え込んでいる。
 先ず書き掛けた記録の続きが、次第もなく心に浮ぶ。伯林《ベルリン》の Unter den Linden を西へ曲った処の小さい珈琲《コォフイィ》店を思い出す。Cafe[#「e」にはアクサンが付く] Krebs である。日本の留学生の集る処で、蟹屋《かにや》蟹屋と云ったものだ。何遍行っても女に手を出さずにいると、或晩一番美しい女で、どうしても日本人と一しょには行かないというのが、是非金井君と一しょに行くと云う。聴かない。女が癇癪《かんしゃく》を起して、melange[#最初の「e」にはアクサンが付く] のコップを床に打ち附けて壊す。それから Karlstrasse の下宿屋を思い出す。家主の婆あさんの姪《めい》というのが、毎晩|肌襦袢《はだじゅばん》一つになって来て、金井君の寝ている寝台の縁《ふち》に腰を掛けて、三十分ずつ話をする。「おばさんが起きて待っているから、只お話だけして来るのなら、構わないといいますの。好いでしょう。お嫌ではなくって」肌の温まりが衾《ふすま》を隔てて伝わって来る。金井君は貸借法の第何条かに依って、三箇月分の宿料を払って逃げると、毎晩夢に見ると書いた手紙がいつまでも来たのである。Leipzig の戸口に赤い灯の附いている家を思い出す。※[#「※」は「糸に求」、94−10]《ちぢ》らせた明色《めいしょく》の髪に金粉を傅《つ》けて、肩と腰とに言訣《いいわけ》ばかりの赤い着物を着た女を、客が一人|宛傍《ずつそば》に引き寄せている。金井君は、「己は肺病だぞ、傍に来るとうつるぞ」と叫んでいる。維也納《ウインナ》のホテルを思い出す。臨時に金井君を連れて歩いていた大官が手を引張ったのを怒った女中がいる。金井君は馬鹿気た敵愾心《てきがいしん》を起して、出発する前日に、「今
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