る。体が人並でない。こんな車の行く処へは行かれないのである。
僕は車夫に、「今の車に附いて行け」と云った。小菅に帰るには、仲町へ曲ってはだめであるが、とにかく霽波と別れさえすれば、跡はどうでもなると思ったのである。僕の車は猶予しながら、仲町の方へ梶棒を向けた。
この時霽波の車は一旦三橋を北へ渡ったのが、跡へ引き返してきた。霽波は車の上から大声にどなった。
「おい。逃げては行けない」
僕の車は霽波の車の跡に続いた。霽波は振り返り振り返りして、僕の車を監視している。
僕は再び脱走を試みようとはしなかった。僕が強《し》いて争ったなら、霽波もまさか乱暴はしなかったのだろう。しかし極力僕を引張って行こうとしたには違ない。僕は上野の辻で、霽波と喧嘩をしたくはない。その上僕には負けじ魂がある。僕は霽波に馬鹿にせられるのが不愉快なのである。この負けじ魂は人をいかなる罪悪の深みへも落しかねない、頗《すこぶ》る危険なものである。僕もこの負けじ魂の為めに、行きたくもない処へ行くことになったのである。それから僕を霽波に附いて行かせた今一つの factor のあるのを忘れてはならない。それは例の未知のものに引かれる Neugierde である。
二台の車は大門に入った。霽波の車夫が、「お茶屋は」と云うと、霽波が叱るように或る家の名をどなった。何でも Astacidae 族の皮の堅い動物の名である。
十二時を余程過ぎている。両側の家は皆戸を締めている。車は或る大きな家の、締まった戸の前に止まった。霽波が戸を叩くと、小さい潜戸《くぐりど》を開けて、体の恐ろしく敏速に伸屈《のびかがみ》をする男が出て、茶屋がどうのこうのと云って、霽波と小声で話し合った。暫《しばら》く押問答をした末に、二人を戸の内に案内した。
二階へ上ると、霽波はどこか行ってしまった。一人の中年増《ちゅうどしま》が出て、僕を一間に連れ込んだ。
細長い間《ま》の狭い両側は障子で、廊下に通じている。広い側の一方は、開き戸の附いた黒塗の箪笥《たんす》に、真鍮《しんちゅう》の金物を繁く打ったのを、押入れのような処に切り嵌《は》めてある。朱塗の行燈の明りで、漆と真鍮とがぴかぴか光っている。広い側の他の一方は、四枚の襖《ふすま》である。行燈は箱火鉢の傍に置いてあって、箱火鉢には、文火《ぬるび》に大きな土瓶《どびん》が掛かっている
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