らない。何でも余程変なものを書いたように記憶している。頭も尻尾《しっぽ》もないような物だった。その頃は新聞に雑録というものがあった。朝野《ちょうや》新聞は成島柳北《なるしまりゅうほく》先生の雑録で売れたものだ。真面目な考証に洒落《しゃれ》が交る。論の奇抜を心掛ける。句の警束を覗《ねら》う。どうかするとその警句が人口に膾炙《かいしゃ》したものだ。その頃僕は某教授に借りて、Eckstein の書いた feuilleton の歴史を読んでいたので、先ず雑録の体裁で、西洋の feuilleton の趣味を加えたものと思って書いて見たのだ。
僕の書いたものは、多少の注意を引いた。二三の新聞に尻馬に乗ったような投書が出た。僕の書いたものは抒情的な処もあれば、小さい物語めいた処もあれば、考証らしい処もあった。今ならば人が小説だと云って評したのだろう。小説だと勝手に極めて、それから雑報にも劣っていると云ったのだろう。情熱という語はまだ無かったが、有ったら情熱が無いとも云ったのだろう。衒学《げんがく》なんという語もまだ流行《はや》らなかったが、流行っていたらこの場合に使われたのだろう。その外、自己弁護だなんぞという罪名もまだ無かった。僕はどんな芸術品でも、自己弁護でないものは無いように思う。それは人生が自己弁護であるからである。あらゆる生物の生活が自己弁護であるからである。木の葉に止まっている雨蛙は青くて、壁に止まっているのは土色をしている。草むらを出没する蜥蜴《とかげ》は背に緑の筋を持っている。沙漠の砂に住んでいるのは砂の色をしている。Mimicry は自己弁護である。文章の自己弁護であるのも、同じ道理である。僕は幸《さいわい》にそんな非難も受けなかった。僕は幸に僕の書いた物の存在権をも疑われずに済んだ。それは存在権の最も覚束ない、智的にも情的にも、人に何物をも与えない批評というものが、その頃はまだ発明せられていなかったからである。
一週間程立って、或日の午後霽波が又遣って来た。社主が先日書いて貰ったお礼に馳走をしたいというのだから、今から一しょに来てくれろと云う。相客は原口安斎《はらぐちあんさい》という詩人だけで、霽波が社主に代って主人役をするというのである。
僕は車を雇って、霽波の車に附いて行った。神田明神の側の料理屋に這入った。安斎は先へ来て待っていた。酒が出る。芸者が
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