書かせてくれろと云う。僕は何とも思わずに受け合った。そこで君に話して見ると、なかなか君がむつかしい事を言う。それを僕が蘇張《そちょう》の舌で口説《くど》き落したのだ。それだから社に帰って、僕は得意で復命したのだ。読売へは誰か社のものが知らせたのだろう。それは僕には分らない。僕は荊《いばら》を負うことを辞せない。平蜘蛛《ひらぐも》になってあやまる。どうぞ書いてくれ給え」
「好いよ。書くよ。しかし僕には新聞社の人の考が分らない。僕がこれまでにない一番若い学士だとか、優等で卒業したとかいうので、新聞に名が出た。そいつにどんな物を書くか書かせて見ようというような訣《わけ》だろう。そこで僕の書くものが旨《うま》かろうが、まずかろうが、そんな事は構わない。Sensation は sensation だろう。しかしそういうのは、新聞経営者として実に短見ではあるまいか。僕の利害は言わない。新聞社の利害を言うのだ。それよりは黙って僕の匿名で書いたものを出してくれる。それがまずければそれなりに消滅してしまう。いくらまずくても、何故あんなものを出したかと、社が非難せられる程の事もあるまい。万一僕の書いたものが旨かったら、あれは誰だということになるだろう。その時になって、君の社で僕を紹介してくれたって好いではないか。そこで新聞社に具眼の人があって、僕を発見したとなれば、社の名誉ではないか。僕はそう旨く行こうとは思わない。しかし文学士何の某《なにがし》というような名ばかりを振り廻すのが、社の働でもあるまいと思うから言うのだ」
「いや。君の言うことは一々|尤《もっとも》だ。しかしそんな話は、戦国の人君に礼楽を起せというようなものだねえ」
「そうかねえ。新聞社なんというものは存外分らない人が寄っているものと見えるねえ」
「いやはや。これは御挨拶だ。あははははは」
 こんな話をして霽波は帰った。僕は霽波が帰るとすぐに机に向って、新聞の二段ばかりの物を書いて、郵便で出した。こんな物を書くに、推敲《すいこう》も何もいらないというような高慢も、多少無いことは無かった。
 翌日それを第一面に載せた新聞が届く。夜になって届いた原稿であるから、余程の繰合せをしてくれたものだということは、僕は後に聞いた。霽波の礼状が添えてある。
 この新聞は今でもどこかにしまってある筈だが、今出して見ようと思っても、一寸見附か
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