な色で、下に白|襟《えり》を襲《かさ》ねていました。帯に懐剣を挿《さ》していても似合いそうな人です」
 僕のふいと言った形容が、お母様にはひどくお気に入った。懐剣を持っていそうなと云うのが、お母様には頼もしげに思われるのである。そこで随分熱心に勧められる。安中も二三度返詞を聞きに来る。しかし僕はついつい決答を与えずにしまった。
 程経てこのお嬢さんは、僕の識っている宮内省の役人の奥さんになられたが、一年ばかりの後に病死せられた。

      *

 同じ年の冬の初であった。
 来年はいよいよ洋行が出来そうだという噂がある。相変らず小菅の内にぶらぶらしている。
 千住に詩会があって、会員の宅で順番に月次会《つきなみかい》を開く。或日その会で三輪崎霽波《みわざきせいは》という詩人と近附になった。その霽波が云うには、自分は自由新聞の詞藻欄《しそうらん》を受け持っているが、何でも好いから書いてくれないかと云う。僕はことわった。しかし霽波が立って勧める。そんなら匿名《とくめい》でも好いかと云うと、好いと云う。僕は厳重に秘密を守って貰うという条件で承知した。
 その晩帰って何を書いたら好かろうかと、寝ながら考えたが、これという思付もない。翌日は忘れていた。その次の朝、内で鈴木田正雄時代から取っている読売新聞を見ると、自分の名が出ている。哲学科を優等で卒業した金井湛氏は自由新聞に筆を取られる云々《しかじか》と書いてある。僕は驚いて、前々晩の事を思い出した。そしてこう思った。僕は秘密を守って貰う約束で書こうと云った。その秘密を先方が守らない以上は、書かなくても好いと思った。
 そうすると霽波から催促の手紙が来る。僕は条件が破れたから書かないと返詞をする。とうとう霽波が遣《や》って来た。
「どうも読売の一条は実に済まなかった。どうかあの一条だけは勘弁して、書いてくれ給え。そうでないと、僕が社員に対して言を食《は》むようになるから」
「ふむ。しかし僕があれ程言ったのに、何だって君は読売なんぞに吹聴《ふいちょう》するのだ」
「僕が何で吹聴なんかをするものかね」
「それではどうして出たのだ」
「そりゃあこうだ。僕は社で話をした。勿論君に何も言わない前から、社で話をしていたのだ。僕が仙珠吟社《せんじゅぎんしゃ》へ請待《しょうだい》せられて行って、君に逢ったというと、社長を始め、是非君に何か
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