こで、御近所に蕎麦の看板があったから、蕎麦掻を御馳走になろうと云った。主人がこれは面白い御注文だと云って笑う。奥さんが女中を呼んで言い付ける。
 令嬢はこの時まで奥さんの右の方に、大人しくすわって、膝に手を置いておられた。ふっくりした丸顔で、目尻が少し吊り上がっている。俯向《うつむ》かないで、正面を向いていて、少しもわるびれた様子がない。顔にはこれという表情もなかった。それが蕎麦掻の注文を聞いて、思わずにっこり笑った。
 僕は蕎麦掻の注文をしてしまって、児島の橘飩《きんとん》にも譲らないと思って、ひとりで可笑《おかし》がった。暫くは蕎麦の話が栄える。主人も蕎麦掻は食べる。ある時病気で、粒立った物が食えないので、一月も蕎麦掻ばかり食っていたと云う。奥さんが、あの時はほんとに呆《あき》れたと云って、気が附いて僕にあやまる。
 僕は蕎麦掻を御馳走になって帰った。主人夫婦に令嬢も附いて、玄関まで送られた。
 帰道に安中が決答を促したが、僕は何とも云うことが出来ない。それは自分でも分らないからである。僕はお嬢さんを非常な美人とは思わない。しかし随分立派なお嬢さんだとは思っている。品格はたしかに好い。性質は分らないが、どうもねじくれた処なぞが有りそうにはない。素直らしい。そんなら貰いたいかと云うと、少しも貰いたくない。嫌では決してない。若《も》し自分の身の上に関係のない人であって、僕が評をしたら、好な娘だと云うだろう。しかしどうも貰う気になられない。なる程立派なお嬢さんだが、あんなお嬢さんは外にもあろう。何故あれを特に貰わねばならないか分らないなどと思う。そんな事を考えては、娵に貰う女はなくなるだろうと、自ら駁《ばく》しても見る。しかしどうも貰う気になられない。僕は、こんな時に人はどうして決心をするかと疑った。そして、或は人は性欲的刺戟を受けて決心するのではあるまいか。それが僕には闕《か》けているので、好いとは思っても貰いたくならないのではないかと思った。僕が何か案じているのを安中は見て取って、「いずれ改めて伺います」と云って、九段の上で別れた。
 内へ帰ると、お母様が待ち受けて、どうであったかとお問なさる。僕は猶予《ゆうよ》する。
「まあ、どんな御様子な方だい」
「そうですねえ。容貌端正というような嬢さんです。目が少し吊《つ》り上がっています。着物は僕には分らないが、黒いよう
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