して買つて好からう。しかしそれに結構な拵をするのは贅澤だ。其上借財のある身分で刀の披露をしたり、月見をしたりするのは不心得だ」と云つた。
 此詞の意味よりも、下島の冷笑を帶びた語氣が、いかにも聞き苦しかつたので、俯向いて聞いてゐた伊織は勿論、一座の友達が皆不快に思つた。
 伊織は顏を擧げて云つた。「只今のお詞は確に承つた。その御返事はいづれ恩借の金子を持參した上で、改て申上げる。親しい間柄と云ひながら、今晩わざ/\請待した客の手前がある。どうぞ此席はこれでお立下されい」と云つた。
 下島は面色が變つた。「さうか。返れと云ふなら返る。」かう言ひ放つて立ちしなに、下島は自分の前に据ゑてあつた膳を蹴返した。
「これは」と云つて、伊織は傍にあつた刀を取つて立つた。伊織の面色は此時變つてゐた。
 伊織と下島とが向き合つて立つて、二人が目と目を見合せた時、下島が一言「たはけ」と叫んだ。其聲と共に、伊織の手に白刃が閃いて、下島は額を一刀切られた。
 下島は切られながら刀を拔いたが、伊織に刃向ふかと思ふと、さうでなく、白刃を提《ひつさ》げた儘、身を飜して玄關へ逃げた。
 伊織が續いて出ると、脇差を拔い
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