には、あれは夫婦ではあるまい。兄妹だらうと云ふものもあつた。その理由とする所を聞けば、あの二人は隔てのない中に禮儀があつて、夫婦にしては、少し遠慮をし過ぎてゐるやうだと云ふのであつた。
二人は富裕とは見えない。しかし不自由はせぬらしく、又久右衞門に累を及ぼすやうな事もないらしい。殊に婆あさんの方は、跡から大分荷物が來て、衣類なんぞは立派な物を持つてゐるやうである。荷物が來てから間もなく、誰が言ひ出したか、あの婆あさんは御殿女中をしたものだと云ふ噂が、近所に廣まつた。
二人の生活はいかにも隱居らしい、氣樂な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を讀む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀劍に打粉《うちこ》を打つて拭く。體を極めて木刀を揮《ふ》る。婆あさんは例のまま事の眞似をして、其隙には爺いさんの傍に來て團扇であふぐ。もう時候がそろ/\暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあふぐうちに、爺いさんは讀みさした本を置いて話をし出す。二人はさも樂しさうに話すのである。
どうかすると二人で朝早くから出掛けることがある。最初に出て行つた跡で、久右衞門の女房が近所のものに話したと云ふ詞が偶然傳へ
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