家で、只臺所だけが、小さいながらに、別に出來てゐたのである。近所のものが、そんなら久右衞門さんが隱居しなさるのだらうかと云つて聞けば、さうではないさうである。田舍にゐた久右衞門さんの兄きが出て來て這入るのだと云ふことである。
四月五日に、まだ壁が乾き切らぬと云ふのに、果して見知らぬ爺いさんが小さい荷物を持つて、宮重方に著いて、すぐに隱居所に這入つた。久右衞門は胡麻鹽頭をしてゐるのに、此爺いさんは髮が眞白である。それでも腰などは少しも曲がつてゐない。結構な拵《こしらへ》の兩刀を挿《さ》した姿がなか/\立派である。どう見ても田舍者らしくはない。
爺いさんが隱居所に這入つてから二三日立つと、そこへ婆あさんが一人來て同居した。それも眞白な髮を小さい丸髷に結つてゐて、爺いさんに負けぬやうに品格が好い。それまでは久右衞門方の勝手から膳を運んでゐたのに、婆あさんが來て、爺いさんと自分との食べる物を、子供がまま事をするやうな工合に拵へることになつた。
此|翁媼《をうをん》二人の中の好いことは無類である。近所のものは、若しあれが若い男女であつたら、どうも平氣で見てゐることが出來まいなどと云つた。中
前へ
次へ
全14ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング