、わが乗れる車を忘れ、車の外なる世界をも忘れたりけむ。
林を出でて、阪路《さかみち》を下るほどに、風|村雲《むらくも》を払ひさりて、雨もまた歇《や》みぬ。湖の上なる霧は、重ねたる布を一重《ひとえ》、二重と剥《は》ぐ如く、束《つか》の間《ま》に晴れて、西岸なる人家も、また手にとるやうに見ゆ。唯ここかしこなる木下蔭を過《す》ぐるごとに、梢《こずえ》に残る露の風に払はれて落つるを見るのみ。
レオニにて車を下りぬ。左に高く聳《そばだ》ちたるは、いはゆるロットマンが岡にて、「湖上第一勝」と題したる石碑《せきひ》の建てる処なり。右に伶人《れいじん》レオニが開きぬといふ、水に臨《のぞ》める酒店《さかみせ》あり。巨勢が腕《かいな》にもろ手からみて、縋《すが》るやうにして歩みし少女は、この店の前に来て岡の方をふりかへりて、「わが雇はれし英吉利人《イギリスびと》の住みしは、この半腹《はんぷく》の家なりき。老いたるハンスル夫婦が漁師小屋も、最早百歩がほどなり。われはおん身をかしこへ、伴はむとおもひて来《こ》しが、胸騒ぎて堪《た》へがたければ、この店にて憩《いこ》はばや。」巨勢は現《げ》にもとて、店に入り
前へ
次へ
全41ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング