めて飲みたまひしが、近きわたりなりし漁師《りょうし》らを見て、やさしく頷《うなず》きなどしたまひぬ。」と訛《だ》みたることばにて語るは、かひもの籠《かご》手にさげたる老女《おうな》なりき。
 車走ること一時間、スタルンベルヒに着きしは夕《ゆうべ》の五時なり。かちより往《ゆ》きてやうやう一日ほどの処なれど、はやアルペン山の近さを、唯何となく覚えて、このくもらはしき空の気色《けしき》にも、胸開きて息せらる。車のあちこちと廻来《まわりこ》し、丘陵の忽《たちまち》開けたる処に、ひろびろと見ゆるは湖水なり。停車場は西南の隅にありて、東岸なる林木、漁村はゆふ霧に包まれてほのかに認めらるれど、山に近き南の方は一望きはみなし。
 案内《あない》知りたる少女に引かれて、巨勢は右手《めて》なる石段をのぼりて見るに、ここは「バワリア」の庭《ホオフ》といふ「ホテル」の前にて、屋根なき所に石卓《いしづくえ》、椅子《いす》など並べたるが、けふは雨後なればしめじめと人げ少し。給仕する僕《しもべ》の黒き上衣《うわぎ》に、白の前掛したるが、何事をかつぶやきつつも、卓に倒しかけたる椅子を、引起して拭《ぬぐ》ひゐたり。ふと
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