く笑ひて。「物忘《ものわすれ》したまふな。おん身が『ロオレライ』の本《もと》の雛形、すみれ売の子は我なりとは、先の夜も告げしものを。」かくいひしが俄《にわか》に色を正して。「おん身は我を信じたまはず、げにそれも無理ならず。世の人は皆我を狂女なりといへば、さおもひたまふならむ。」この声|戯《たわぶれ》とは聞えず。
 巨勢は半信半疑したりしが、忍びかねて少女にいふ、「余りに久しくさいなみ玉ふな。今も我が額《ぬか》に燃ゆるは君が唇なり。はかなき戯とおもへば、しひて忘れむとせしこと、幾度《いくたび》か知らねど、迷《まよい》は遂に晴れず。あはれ君がまことの身の上、苦しからずは聞かせ玉へ。」
 窓《まど》の下《もと》なる小机に、いま行李《こり》より出したる旧《ふる》き絵入新聞、遣《つか》ひさしたる油《あぶら》ゑの具《ぐ》の錫筒《すずづつ》、粗末なる烟管《キセル》にまだ巻烟草《まきタバコ》の端《はし》の残れるなど載せたるその片端に、巨勢はつら杖《づえ》つきたり。少女は前なる籐《とう》の椅子《いす》に腰かけて、語りいでぬ。
 「まづ何事よりか申さむ。この学校にて雛形の鑑札受くるときも、ハンスルといふ名
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