の騒ぎに少女が前なりし酒は覆《くつが》へりて、裳《もすそ》を浸《ひた》し、卓の上にこぼれたるは、蛇の如く這《は》ひて、人々の前へ流れよらむとす。巨勢は熱き手掌《たなぞこ》を、両耳の上におぼえ、驚く間もなく、またこれより熱き唇、額に触れたり。「我友に目を廻させたまふな。」とエキステル呼びぬ。人々は半ば椅子より立ちて「いみじき戯《たわぶれ》かな、」と一人がいへば、「われらは継子《ままこ》なるぞくやしき、」と外《ほか》の一人いひて笑ふを、よそなる卓よりも、皆興ありげにうち守《まも》りぬ。
少女が側《そば》に坐したりし一人は、「われをもすさめ玉はむや、」といひて、右手《めて》さしのべて少女が腰をかき抱きつ。少女は「さても礼儀知らずの継子どもかな、汝らにふさはしき接吻のしかたこそあれ。」と叫び、ふりほどきて突立ち、美しき目よりは稲妻《いなずま》出づと思ふばかり、しばし一座を睨《にら》みつ。巨勢は唯|呆《あき》れに呆れて見ゐたりしが、この時の少女が姿は、菫花うりにも似ず、「ロオレライ」にも似ず、さながら凱旋門上のバワリアなりと思はれぬ。
少女は誰《た》が飲みほしけむ珈琲碗に添へたりし「コップ」
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