このまとゐに入りし時、已《すで》に少女の我すみれうりに似たるに驚きしが、話に聞きほれて、こなたを見つめたるまなざし、あやまたずこれなりと思はれぬ。こも例の空想のしわざなりや否《いな》や。物語畢りしとき、少女は暫し巨勢を見やりて、「君はその後《のち》、再び花うりを見たまはざりしか、」と問ひぬ。巨勢は直《ただ》ちに答ふべき言葉を得ざるやうなりしが。「否。花売を見しその夕《ゆうべ》の汽車にてドレスデンを立ちぬ。されどなめなる言葉を咎《とが》め玉はずばきこえ侍《はべ》らむ。我すみれうりの子にもわが『ロオレライ』の画《え》にも、をりをりたがはず見えたまふはおん身なり。」
この群は声高く笑ひぬ。少女、「さては画額ならぬ我姿と、君との間にも、その花うりの子立てりと覚えたり。我を誰とかおもひ玉ふ。」起ちあがりて、真面目《まじめ》なりとも戯《たわぶれ》なりとも、知られぬやうなる声にて。「われはその菫花《すみれ》うりなり。君が情《なさけ》の報《むくい》はかくこそ。」少女は卓越《たくご》しに伸びあがりて、俯《うつむ》きゐたる巨勢が頭《かしら》を、ひら手にて抑へ、その額《ぬか》に接吻《せっぷん》しつ。
こ
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