サンシュウル》の可笑《おか》しい程厳しいウィインやベルリンで、書籍としての発行を許しているばかりではない、舞台での興行を平気でさせている、頗る甘い脚本であった。
 しかしそれは三面記者の書いた事である。木村は新聞社の事情には※[#「※」は「目」+「薨」の「死」に代えて「目」」、121‐8]《くら》いが、新聞社の芸術上の意見が三面にまで行き渡っていないのを怪みはしない。
 今読んだのはそれとは違う。文芸欄に、縦令《たとい》個人の署名はしてあっても、何のことわりがきもなしに載せてある説は、政治上の社説と同じようなもので、社の芸術観が出ているものと見て好《よ》かろう。そこで木村の書くものにも情調がない、木村の選択に与《あずか》っている雑誌の作品にも情調がないと云うのは、木村に文芸が分からないと云うのである。文芸の分からないものに、なんで脚本を選ばせるのだろう。情調のない脚本が当選したら、どうするだろう。そんな事をして、応募した作者に済むか。作者にも済むまいが、こっちへも済むまいと、木村は思った。
 木村は悪い意味でジレッタントだと云われているだけに、そんな目に逢《あ》って、面白くもない物を読
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