った。しかし木村は格別それを不幸にも感じていないらしい。
夕方のあとはまた小降になって余り涼しくもならない。
十一時半頃になると、遠い処に住まっているものだけが、弁当を食いに食堂へ立つ。木村は号砲《ドン》が鳴るまでは為事をしていて、それから一人で弁当を食うことにしている。
二三人の同僚が食堂へ立ったとき、電話のベルが鳴った。給仕が往って暫く聞いていたが、「少々お待下さい」と云って置いて、木村の処へ来た。
「日出新聞社のものですが、一寸電話口へお出《いで》下さいと申すことです。」
木村が電話口に出た。
「もしもし。木村ですが、なんの御用ですか。」
「木村先生ですか。お呼立て申して済みません。あの応募脚本ですが、いつ頃御覧済になりましょうか。」
「そうですなあ。此頃忙しくて、まだ急には見られませんよ。」
「さようですか。」なんと云おうかと、暫く考えているらしい。「いずれまた伺います。何分宜しく。」
「さようなら。」
「さようなら。」
微笑の影が木村の顔を掠《かす》めて過ぎた。そしてあの用箪笥の上から、当分脚本は降りないのだと、心の中で思った。昔の木村なら、「あれはもう見ない事にし
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