イタリア人は生死の境に立っていても、遊びの心持がある。兎に角木村のためには何をするのも遊びである。そこで同じ遊びなら、好きな、面白い遊びの方が、詰まらない遊びより好いには違いない。しかしそれも朝から晩までしていたら、単調になって厭《あ》きるだろう。今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はあるのである。
この為事を罷めたあとで、著作生活の単調を破るにはどうしよう。それは社交もある。旅もある。しかしそれには金がいる。人の魚を釣るのを見ているような態度で、交際社会に臨みたくはない。ゴルキイのようなvagabondage《ワガボンダアジュ》をして愉快を感じるには、ロシア人のような遺伝でもなくては駄目《だめ》らしい。やはりけちな役人の方が好いかも知れないと思って見る。そしてそう思うのが、別に絶望のような苦しい感じを伴うわけでもないのである。
ある時は空想がいよいよ放縦になって、戦争なんぞの夢も見る。喇叭は進撃の譜を奏する。高く※[#「※」は「上が敬、下が手」、第3水準1−84−92、128−5]《かか》げた旗を望んで駈歩をするのは、さぞ爽快《そうかい》だろうと思って見る。木村は病気
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