。いつも半数集まればいい方だと聞いているにも拘らず、その日ばかりは「顔合せ」の意味もあるのか(酒肴がつきもの)ぽつぽつとみんながやって来る。会場は役場の二階であるが、大方――いやそんな形式ばったところはいつも使用されず、事務室に隣る十二畳の一部屋が会場になるのである。真ん中に切った炉にはすで瀬戸ひきの鉄瓶がかけられ、いい加減|温《ぬくも》っている。無論、中味はただの湯ではない。村長はまだやって来なかったが、村議たちは助役を囲んで雑談しながらちびりちびりはじめていたのである。
やがてモーニングを着用した堂々たる瘤のご入来であった。六十五歳とはどうしても思われない六尺ゆたかの、よく肥った半白と言いたいが、まだそれほどでもない頭髪を綺麗に撫でつけ、無髯のあから顔、そして左頬の下へぶら下った偉大なる肉塊――それが歩くたびにゆっさゆっさと顔面と共に揺れる。
黙々としてやって来た彼は、どっかと床の間の正面へ座って、まず煙草に火をつけ、それからぐるりとみんなを見渡した。田辺ともう一人の新顔がここぞと思って挨拶すると、村長は別に気にとめるという風もなく、「ああ……」と一つうなずいただけで、やおら紫煙を吐き、小使の汲んで出す渋茶にも眼もくれず、いきなり猥談をはじめた。
「昨夜は弱ったぜ、『しん六』サ引張ってゆかれたはまアいいが、あいつがいやがって……あんなところに。あの『鶴の屋』にいた小便くせえハア子の野郎さ、あいつが君、くりくりした眼のいい加減のやつ[#「やつ」に傍点]になってやがてからに、俺を見たら、へんな顔してしまって、畜生――」
「あれッ、あの阿女っちょ[#「ちょ」に傍点]か」と助役が頓狂な声を上げた。
「それで奴、どうしても俺の前へ出て来ねえ。呼ぶとますますそっぽ向いてからに、畜生。」
「そんなこと言って村長、それからあとでもて[#「もて」に傍点]っちまって、今朝おそくなったんだねえのか。」
これは村議の一人、村で米穀肥料商を営んでいる沢屋の旦那[#「沢屋の旦那」に傍点]である。
「そんなら文句はねえが、俺も悲観しちまったな。いくら呼んでもそばへも寄って来ねえときては……俺もこれ、いよいよ女には見離されるような年頃になったかと思ってな、はは、ははは……」
「時に――」村長は笑いを止めて、村議の一人が注いで出す酒を見向きもせず、「別に今日は議案はあるめえ。――俺はもう出かけなくちゃならん……」
そして時計を見た。
「なんだね、今日は……」
「例の、それ、陳情さ――また、畜生、東京行だ。毎日々々、いやんなっちまう。」
のっしのっしと瘤をゆさぶって村長は出かけてしまった。J沿線の町村長がこの地方の中心小都市M市までの鉄道の電化を運動していたのは一昨年からのことで、それがようやく実現しそうな気運になっていたのである。
「陳情づら[#「づら」に傍点]だねえからな」とひとりの村議が役場の門を出てゆく村長をちらり[#「ちらり」に傍点]と見ると笑った。
「でも、あの顔で陳情されたら、たいがいの大臣、次官も参っちまアべ。」
「気勢だけでか。」
「さてト、俺もそれではこれから陳情に出かけるかな、これ、顔はちっとも利かねえが。」
「俺も陳情だ――催促の来ねえうちあすこ[#「あすこ」に傍点]からよ。」
二人、三人と、みんなそれぞれ出かけてしまって、残ったものは酒をやりながら下らない雑談であり、将棋の見物である。
二日目の村会には誰一人姿を見せず、三日目には四五人集まって、やはり、雑談と酒、それから内務省へ行って帰った村長から、陳情団員の笑話など聞かされてそれでお終いであった。議事といえば村社修復後の跡始末――木材や竹切がまだ残っている、あいつを早く片付けさせること、社前の水はき[#「はき」に傍点]をよくしなくては参詣者が雨降り毎に難儀する……というようなことが助役の口から出て、異議なし、異議なし。……それだけであった。
五
つぎの月の村会も大同小異で、なんら議題というほどのことはなく、雑談と茶碗酒にすぎてしまった。そして、しかもそれだけのことで、一日二円の日当――三日間で六円になるのだから「偉い」ものであった。いや、偉いものといえば、他の村会議員――瘤派の連中は何々委員とか、何々調査員とかいう役目をかねていて、三日にあげずにその辺をうろつき廻り(たとえばどこの田圃の石橋はどうなっているとか、伝染病の予防施設がどうとか、そんなちょっとした通りがかりにも調べられるようなことを業々しく見て廻って)、それでやはり日当を取るし、とうぜん、村長の出なければならぬ席上へ代理に出ても日当(村長は他へ出張。)こういうことのほか、役場員自身がまた、社寺、土木、衛生、税務……などそれぞれ自分の分担事務の名目において他村へ「調査」などに出かけ、旅費をせしめる。
ばかりでなく瘤派の連中は、何かは知らぬが始終飲食店で会合したり、でなければこそこそと瘤の家へまかり[#「まかり」に傍点]出て夜半まで過すというようなことをやらかしているらしかった。
田辺は無論いまだそういうのが実は本当の村会であって、月一回きめられた日に役場へ会合するのなど、単にそれは日当の手前、ちょいと顔を出す程度のことにしかすぎない……などとは知らなかったのである。
だから、彼はいよいよ次年度の予算案が討議されるという月の村会日の二三日前、ぶらりと沢屋米穀商が肥料売込みの風をしてやって来て、つぎのように誘いをかけたことも真意が解けずにしまったのだ。
「瘤のとこで今夜『お日まち』があるんだ。」「お日まち」というのは何か起源やいわれは分らないが、親しい同志が寄って一杯飲むことで通っている。
「どうだい、顔を出したら……」と沢屋は禿げ上った額をつるりと撫でるようにしてソフト帽をかぶり自転車に片脚をかけて、「みんな来るはずになっているんだが、あんたもひとつ……」
「そうよな、でも、どうせ、俺なんか酒はあんまりやらんし、瘤のエロ話も若干ぞっとせんからな。」
「ぞっとするようなことも若干いうんだよ、あれで……」
あははは、と高笑いして沢屋はそのまま行ってしまったが、それがあとで考えると。……
田辺は村社の境内がどうとか、学校の新築がどうとかいうことより、根本の村政改革問題はこの予算の徹底的な検討と再編、いや出来る限りの削減、そして徒らに村吏員や村議が日当ばかり取ることを止めてしまって、それだけ村民の負担を軽くするにあると考えていた。で、彼は今度の会こそ、自分の本分をつくすべき機会であり、それこそまかり間違えば瘤と一戦を交える覚悟をきめてかかっていたのだ。
役場から古い書類の綴を引っ張り出して来て、彼は前年度、前々年度の予算表や、それに対照する収支決算報告書を丹念にしらべにかかった。
歳入出計二七・六三九、及び二七・八七七、両年度とも大差なく、そして見事に収支を合せてはいるが、ちょっと気をつけて見ると、会議費二一一、および二三〇とか、基本財産造成費五八一――五九八、雑支出というのが二七九――三〇一とか、その他伝染病予防費というのや、衛生諸費、汚物掃除費というのや、明らかに重複しているばかりかどんな風にでも小手先で流用し得るような支出が多く、また、いったい会議費というのはどんな細目のものだろうと見ると、筆墨、薪炭、用紙、茶、雑などというもので、それは他の項の雑支出と大して違わない細目である。それからまた「臨時支出」という項が別にあって、そこにも雑支出や、統計費などというものが挙げてあり、ここでもダブっている。村会の時いつもがぶがぶみんながひっかけている酒、あれは、それではどこから出るというのであろうか。まさか、役場費からでもあるまいと思って睨むと、やはりそうではない。役場費の八・一〇三という数字は吏員の給料や臨時手当である。
「馬鹿野郎」と田辺定雄はつぶやいた。要するに報告などというものは、形式的な、いい加減なものにすぎないので、それは何も村役場のそれにのみ限ったわけではなかったのだ。からくり[#「からくり」に傍点]はもっと内部にある。そいつを俺はしっかりと掴まなければいかんのだ。そうしなければ瘤をやっつけるわけにはゆかんのだ。
ところで……と田辺は書類を傍へ押しやり、机へ頬杖ついて考える。瘤をたたき落すこと、そいつはひとまず問題ないと仮定して(何故なら奴の缺点なんか掴もうと思えば歳入出面とは限らず、いくらでも転っていようし、奴に反感をいだいている助役の手許にだって山ほど集まっていよう)、ただそのために例の奴を番犬の如くに考えて頼っている一部の連中、信用組合員や農会の連中、あいつらが何というかだ。――瘤がかつて村の金庫を腕力で護ったと同じように、現在、彼らは自分達の金庫を名村長瘤の存在によって守ってもらっていると信じているんだ。
だが、いかに瘤の存在によってそれが守られていようと、要するに時日の問題でなければなるまい。無力文盲に近い貧農たちの無けなしの土地を整理して、上部の方を辻褄合せようと、組合の内部は依然として火の車なのであり、いや、ますますそれが悪化していっているのだ。碌な事業はせぬ、それで取るべき給料はきちんきちんと取っている、では……三年か五年か、それは分らないが、いずれにしても瘤にも寿命というものはあろう、いや、名村長、大もの[#「大もの」に傍点]の貫禄はいまや年一年減少しつつあると考えてもあえて間違いではないであろう。
根こそぎ町の金持のところへこの村が持って行かれるなら、一日も早く、きれいさっぱりと持ち去られた方がよくはないのか。そして何もかも新しく、これからやり直すのだ。村を再建するんだ。
一方においては「喰われる」といって瘤を非難排斥しながら、一方において、大もの[#「大もの」に傍点]、名村長として頼る一部村民の気持というものが、ここにおいて解決せられるわけである。番犬としてたよりながらも、その奥底では始末にいかない村のこぶ[#「こぶ」に傍点]として嫌悪しているのが結局のところ本当なのだ。裸になるつもりでみんながやれば訳はなかったのである。
それにあの森平のような貧乏人たちは、全部、村をあげて、番犬の必要なんて余りないのだから、俺の味方に立って、俺が瘤と一戦を交える場合は、いっしょにやってくれなければならぬ訳でもある。――要するに、こぶ[#「こぶ」に傍点]なんかにびた[#「びた」に傍点]一文だって「喰われ」ようとする馬鹿はないのだ。ただ、しからばそれをどうしようという勇気がないだけなんだ。意気地がないだけなんだ。
待望の予算会議がやって来た。それは霙の降るいやに寒い日で、田辺定雄は外套の襟をふかく立て、定刻に役場の門をくぐったのであったが、少なくとも何の議案もない平常と違って、今日は最も重大な村の経済問題の討議される日であった。他の議員たちも緊張して早く顔を見せるだろうと思って自分も意気込んでやって来たにも拘らず、依然として時間をすぎても誰もやって来るものもなく、事務室の方で、若い書記の一人が、しきりに何かの謄写刷をやっている以外、役場には誰一人いないといっていいような有様。
「どうしやがったんだい、みんな。」
剛張《こわば》った両腕をぶん廻しながら事務室へ行ってのぞき込むと、書記は面倒くさそうに刷り上った幾枚もの紙を揃えて、さらに何かペンで数字を訂正している。
「何だか、それ――」
ふふん……と笑っているのを取り上げて見ると、何とそれは、今日討議さるべき予算案ではないか。
「ほう……どれ、揃ったら一部見せろ。――早くみんな来ねえかな。重大な今日の会議をいったい何と思っているのかな。」
「昨夜、みんな遅かったようだから、今日はどうかな――」
書記は相変らずにやにや笑っている。
「昨夜……? 昨夜、連中、何かあったのか。」
「瘤の家で……みんなで大体、これ下ごしらえしたんだ、下ごしらえといっても、もうこれで決ったようなもんだっぺ……」
「へえ……」と田辺は眼を剥《む》いた。むかむかと横腹のところがもり上った。
そこへ自分と同じくこんど上っ
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