犬田卯

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)零《こぼ》した

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)付属品|一切《いっさい》代

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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     一

 中地村長が胃癌という余りありがたくもない病気で亡くなったあと、二年間村長は置かぬという理由で、同村長の生前の功労に報いる意味の金一千円也の香料を村から贈った直後――まだやっとそれから一ヵ月たつかたたないというのに、札つきものの前村長の津本が、再びのこのこと村長の椅子に納まったというのであるから、全くもって、「ひと[#「ひと」に傍点]を馬鹿にするにもほどがある」と村民がいきり立つのも無理はなかった。
 中地はとにかく村長として毒にも薬にもならぬと言った風の、しごく平凡なお人好しで、二期八年間の任期中碌な仕事もしなかった代りに、これぞといって村民に痛い目を見せたこともなかったのである。千円という莫大な香料を貰ったとはいうものの、遺族にとってはおやじ[#「おやじ」に傍点]が八年間遊んで使った金に比すれば、それは十分の一にも相当しないと零《こぼ》した位で、かなりあった土地もおおかた抵当に入ってしまい、あまつさえ医師への払いなどはそのままの状態で。……
 しかるに「瘤」ときては――津本の左の頬には茶碗大のぐりぐりした瘤があるところから、村民は彼を「瘤」「瘤」と呼び、その面前へ出たときでもなければ決して津本という本名では呼ばなかった――実際、中地とは反対に、たった一期間の前の任期中、数千円の大穴をあけたばかりか、特別税戸数割など殆んど倍もかけるようにしてしまったし、それから、農会や信用組合まで喰いかじって半身不随にした揚句、程もあろうに八百円の「慰労金」まで、取って辞めたという存在――いわゆる「札つき者。」
「まったく奴は村のこぶだったよ。いつまでもあんな奴にぶら下られていたんでは、村が痩せてしまうばかりだ。」
 そんなことで、中地が代ったときは、村民はひとまずほっとしたばかりか、
「早くくたばら[#「くたばら」に傍点]ねえかな、いっそのこと、あいつ。生きていると、村長やらないにせよ、どんなことでまた村がかじられるか知れねえからよ」などと残念がる者もあった位。
 事実、村長はやめても、村農会長、消防組頭、いや、村会へまで出しゃばって、隠然たる存在ではあったのである。
 そういう津本新平は今年六十五歳、家柄ではあるが別に財産はなかった。若い頃、剣が自慢で、竹刀の先に面、胴、小手をくくりつけ、近県を「武者修業」して歩いたり、やがて自分の屋敷へ道場を建てて付近の青年に教えたり、自称三段のこの先生は五尺八寸という雄偉なる体躯にもの[#「もの」に傍点]を言わせて、三十歳頃から政治[#「政治」に傍点]に興味を覚え、そして運動員として乗り出し、この地のいわゆる「猛者」として通るようになったのであった。
 村会から郡会、郡が廃されてからは県会と、彼はのし[#「のし」に傍点]上った。他を威嚇せずにおかない持前の発声とその魁奇なる容貌――その頃から左の頬へぶら下りはじめた瘤のためにますますそれはグロテスクに見え出した――政×会に属していた彼は、一方県警察部の剣道教師という地位からか、この地方の官憲と気脈を通じているという噂のために一層「貫禄」が加わった。
 したがって彼が県議をやめて村長になった当時は、「名村長」と新聞などでは書いたほどだった。ただ彼をよく知る村民のみが、「とんだ名村長よ、あんまり人物がでか[#「でか」に傍点]過ぎて、こんな貧乏村では持ちきれめえ」などと笑い合ったが。「だが――」と真面目くさって説をなす者もあるにはあった。「顔がきくから政府から交付金ひったくるにはもってこいだっぺで。」
 事実、小学校を改築したり、荒蕪地の開墾を村民にすすめて助成金を申請してやったり、どんな些細なお上の金でも呉れようというものは貰ったが、その代り村内の出費もこの瘤が村長になるや否や前述のように倍加した。それというのは、村の有志や村会議員が七分通り彼の道場の門下生で、「先生、先生……」と下から持ち上げ、一週間に一回は必ず町へ自動車を吹っ飛ばすといったようなことをやらかしたからでもある。
 ところで、改築したばかりの小学校舎の壁が剥落して彼の辞職の主因をつくってしまった。その壁たるや、実に沼の葭を刈って来て簀の子編みにしたものを貼りつけ、その上へ土を塗ったのであった。いかに村民が馬鹿の頓馬で、木像のように黙っている存在にもせよ、それだけは許さなかった。もっとも表面は「任期満了、病気にて再任に堪え得ず」ということではあったのだが。
 辞職後はF町裏に囲ってあった第二号も「解職」したということであったし、第一、ご自身が酒からの動脈硬化で全く「再任には堪え得なかった」であろうが、しかしそれも大したこともなくやがて回復し、旺盛な彼の生活は依然として、それからもつづけられたのだ。ところが、何をいうにももはや金の流入する道が、小さいのはとにかくとして、めぼしいのは一つ一つ塞がれた形で……。消防組頭、郡農会長、村農会長……それだけでは三人の子供ら――長男は賭博の常習犯、次男は軟派の不良、三男は肺結核――の小遣銭まではとて[#「とて」に傍点]も廻らない。かと言ってこの村農会長様は会費の徴集には特殊の手腕を発揮するが、苗一株植えるすべ[#「すべ」に傍点]は知らないのである。まさか[#「まさか」に傍点]とは思われるが、「食えないから、いよいよ、村長にでもならなけりゃ」と子分の村議の前で放言したのがきっかけで、中地村長の香料を浮かすために、二年間村長を置かぬという村の方針にも拘らず、再選の問題が否応なしに持上ったのだとのこと、表沙汰は、「この非常時に際して、いかになんでも村長がいなくては……」という事だったが。
 おりから二・二六事件で、世は騒然たるものがあり、また村から大量の賭博犯人があがる、村議のうち中地派だった一人の長老が引退し、津本派が五名……といったようなことで、かくしてここに再度、村へは瘤がくっついた次第なのだ……

     二

 蔭ではいきり立ったが、さて、正面きって堂々と、それでは、これをどうしようと言うものも村民の中からは出て来なかった。それには深いいわれがなくもない。と言うのは、まず八名の村議のうち例の五名までが瘤の門下生であり、吏員の半数以上がかつて瘤のお伴でF町の料亭で濃厚な情調――多分――を味わった経験の持主と来ている上に、村の長老株もまた同穴の狢ならざるはなく、学校長、各部落の区長にいたるまで何らかの意味で瘤の息がかかるか、あるいはその弱点を握られているかしないものは無かったのだ。弱点云々といえば、一見、瘤に対抗して、優に彼を一蹴し得るだろうような村内のいわゆる長老有志たち――主として地主連にしてもやはり「さわらぬ神に……」式に黙過しているのは、そういう奴が伏在していたからである。たとえば俄か分限者の二三の小地主たちなどは、いずれもコソ泥の現場――夜の白々明けに田圃の刈稲を失敬しているところや、山林の立木を無断伐採しているところなどを、沼へ鴨打ちに出かける瘤のために発見されて「金一封」で事なきを得ていたし、村内殆んど全部の地主たちは、かつて左翼華やかなりし頃、この瘤の献身的な強圧のお蔭を被って滞りなく小作米を取り立てていた。
 自小作農にいたっては遺憾ながら烏合の衆というよりほかなかった。「同じ喰われるにしたところが、有志たちが十喰われるとすれば俺たちは一か、せいぜい二ぐらいのところで済むんだ。下手に出て頭でも打割られるよりは黙って喰われていた方が安全さ。なアに、そのうちまた中風がぶり返して、今度こそはお陀仏と来べえから。」
 ところが瘤自身は中風の再発どころか、再就任以来すっかり若さを取りかえしたもののように、今日も出張、明日も出張、どこへ行って、どんな用事を足してくるのか分らなかったが、お蔭でまた村では村税付加がじりじり大きくなって来た。他村では本税の二三割で済む自転車税の付加が、この村では九割。家屋税にせよ、宅地税にせよ、いずれもそれ位の付加額がくっついてくる。自転車や牛車などは親類縁者をたよって他村の鑑札でごまかしたが、家屋税付加などにいたってはそんなからくりも出来ない。農会費、水利組合費、これまた前年度の倍もかかるようになってしまう。少々は喰われたって……と温良ぶった村民も、内心では次第に悲鳴をあげ出した。
「名村長ちうから村がよくなるのかと思ったら、どうしてどうして貧乏するばかりだ。全くあれは生命取りの瘤だっぺよ。」
「誰か奴をやっつけてくれるものが出ないことには、俺たちはいまにすっからかん[#「すっからかん」に傍点]に搾られてしまう……」
 ところで、それまでになっても、では、俺が出て、ひとつ……というほどの覇気のある者も、まだ、ついにいなかったのである。
 そういう村民の無力、意気地なさを嘲笑するもののように、さらに彼らの無けなしの金を捲き上げる計画は次から次へと実施されはじめた。村社の修復、屋根がえ、学校長への大礼服の寄贈(しかもこれは貧富に拘らず、校長氏が準訓以来教えた全部の卒業生各自への二十銭の割当寄付によったもので、一家四五名の卒業生も珍らしくなく、現在通学中の児童へ一本の鉛筆を買い与えることすら容易でないものも既定額を出さねばならなかったのだ。そして六百何十円――約七百円近く集まった金は一銭の剰余も不足もなく金ピカの大礼服及び付属品|一切《いっさい》代として決算せられたのである。柳原ものではあるまいかと思われるような上下色沢の不揃いな金モール服が何と六百何円――貧乏村の校長氏の高等官七等の栄誉を飾るためにこの瘤村長は通学児童の筆墨代をせしめ[#「せしめ」に傍点]たのである。)これにつづいて学校新築の問題が表面化した。増築案は前村長時代から持ち越されていたものだが、それさえ行き悩みつつあったのに、今度はさらに何万かを加算しての新築案。
「また葭簀の壁の学校こしらえて一と儲けする気か知れねえが、もうみんな、黙っちゃいめえで……」
 村民は依然として蔭では言うものの、公然とこの案に対して無謀を叫ぶものもなかったのである。いや、大いにやってもらって、教育上、ないし児童の保健上、現在のような雨漏り吹き通しの校舎はよろしくない――立派な鉄筋コンクリート二階建の校舎を近村に誇ろうではないかというようなのが、村当局一般の意向でさえあるらしかった。

 さて、田辺定雄が鮮満地方の放浪生活を切り上げて村へ帰ったのは、村の事態が以上のような進行をしている最中だったのである。くわしく言えば、津本村長再選後間もない頃のことであったのだ。この青年は、さる私立大学を中途でやめて軍務に服し、少尉に任官して家へかえり結婚したが、当時、親父がまだ身代を切り廻していて、作男達と共に百姓でもしない限り、全く居候的存在にすぎない自分を不甲斐ないものに思い、服役中過ごした南満の地に再び舞い戻って、満鉄の業務員、大連の某会社の事務員、転じて朝鮮総督府の雇員……と数年間を転々したのであった。しかるに今度、親父の死、それに学閥なき者の出世の困難さにつくづく業を煮やしていた矢さきという条件も手伝って、祖先の地とその業務にかえる決意をしたので……
 半年間は家産の再検討に過ごした。親父がかなり放慢政策をとっていたと見えて、五町歩の水田と三町歩の畑、二十町歩の山林のうち、半分は手放さなければ村の信用組合、F町の油屋――米穀肥料商――農工銀行、土地無尽会社、その他からの借財は返せなかった。三円五円という村内の小作人への貸金、年貢の滞り――それらは催促してみたがてんで埓があかず、いや、それらの小農民たちの生活内情を薄々ながら知るに及んで、むしろ何も深く知らず催促などした自分の不明が恥かしくさえ感
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