ことに思いを及ぼし、まざまざと母の烙印を見たように思ったのだ。気を取り直して田へ行くには行ったが、おせきは胸が静まらなかった。覚束《おぼつか》ない手つきで苗を取っているおさよの、そののろのろした不器用さまでが癪に触った。
「そんな取り方で植えられっか、このでれ[#「でれ」に傍点]助阿女――」と彼女はいきなり叱りとばした。「こういう風に指先で分けて取るんだ。馬鹿、俺らお前の年には、はア、どんな仕事でも大人並に出来たど。婿の二人や三人貰ってもびくともしねえ位の気持だったど。このちんちくりん奴。」
代掻《しろか》き器械を扱いかねている由次と勝の動作にも同様に腹が立った。
「馬鹿野郎ら、そんな風に把手を下げる奴があるもんか、空廻りしちまって何度やっても駄目だねえか。把手を上へあげて、上へ……。汝《いし》ら、はア、いくつになると思ってけっかるんだ。一人前に大飯ばっかり喰いやがって、このでれ[#「でれ」に傍点]助野郎ら。」
やがて浩平が牛車で肥料の叺をいくつか積んで来て、それを代田《しろた》の近くに持ち運び、黙ってその口をあけ、そして灰桶へあけては、ばらばらと由次と勝が掻きならした田の面でばら撒きはじめた。
ぷんとその匂いがおせきの鼻を打った。気持をそそる肥料の匂い――が、そこには何か不純なものが含まれていた。彼女は苗取る手を休めて苗代から代田の畦へ近づき、そのばら撒かれた肥料を泥の上から掬い上げて、色合を見たり匂いをかいだりしていたが、今度は叺そのものに近づいて、ざくりと手一ぱいに掬い上げて検分した。
「こんな配合……なんだや、これ、糟くそ[#「くそ」に傍点]みてえなもの、これでも利《き》くつもりかい。――誰からこれ買ったか知んねえけんど、まさか、塚屋だあるめえ。」
浩平は返事をしなかった。そっぽを向いて、ただ熱心に、ばらばらと撒いて歩いた。
「ああ、お父、まさか塚屋から買ったんだあんめえよ。」
さらに追求されて浩平は反発した。
「塚屋から買ったんならどうしたか。」
「どうしたもこうしたもあるもんか。あのインチキ野郎、山十の倉庫から十年も二十年も前の、下敷きになっていた利きもしねえ腐れ肥料持ち出して来て、そいつを新しい叺につめかえて、倍にも三倍にも売っているんだちけが、まさか、俺家のお父ら、天宝銭でも八文銭でもねえちけから、そんな、塚屋らに引っかかったわけではあるめえと思ってよ。」
この女房の一言はぐさりと浩平の胸を刺した。
「なに、もう一遍言ってみろ。」
ぐいっと向き直ったが、おせきのぎらぎらする両眼に打《ぶ》つかると、浩平は矢庭《やにわ》にそっぽを向いた。
「一遍でも百遍でもいうとも。こんな肥料、いくらで、誰から買ったか知んねえけんど、これが丁満《ちょきん》に利いたらお目にかからア。」
何か言いかえすかと夫を見たが、そっぽを向いたまま知らん振りで、相変らずばらばらと撒きつづけているので、おせきは威丈高になった。
「こんなもの、いくらで買ったか知らねえが、よくもそんな腐れ肥料買う金があったことよな。まさか、その金、どこからかぬすと[#「ぬすと」に傍点]して来たわけじゃあるめえが、よく借りるところがあったことよな。」
暗に母のところを指したこの針をふくんだ一言は、またしてもぐさりと浩平をえぐった。
「どこで借りようと、誰に借りようと、お前らに心配かけねえから……」
「心配かけねえ?」
「かけねえとも――」
「ふん、そんな、はア、水臭えこと抜かしやがるんなら、さっさと俺家出てもらアべ、婿の分際も弁えねえで、心配かけねえとは何事だ。自分勝手に、婿なんどに身上引っかき廻されて、それでこの俺が、黙っていられっかっちんだ。これで俺ら、人に後指《うしろゆび》さされるようなこと、まあだした覚えはねえんだと。このでれ[#「でれ」に傍点]助親父。」
おせきは遠くの田圃にいる人々が首をもたげたほどの声で、家付娘の特権を振りまわした。
「ばか阿女、いくらでも哮《ほ》えろ」と浩平は気圧《けお》され気味で、にっと笑った。「山の神なんか黙って引っ込んでいればいいんだ。何のかんのと差出がましいこと言うのを、俺の方の村では雌鶏めとき[#「とき」に傍点]吹くって笑うんだ。雌鶏とき吹くとその家に災難があるって、昔からこの辺でも言ってべ。」
「何だと、きいた風なこと吐かしやがって、汝《いし》ら、はア、俺家のおっ母とでもいっしょになれ……今日限り、縁を切っから、はア……」
おせきは地団太を踏んで、歯をぎりぎりとかみ、熱い涙をはらはらと飛ばした。
「おっ母さん、はア、勘忍して……おっ母さん、よう勘忍して……」とおさよが、泥手のまま夫に武者ぶり付こうとする母のあとから、いきなり縋《すが》りついた。
六
次の日、長男の勇が東京の工場からひょっこり帰って来て、おせきの気持はどうやら転換した。田圃には自分たち同様、田植の人々がそこにもここにも見えたので、彼女はおさよにすがりつかれるまでもなく、じっとそこで我慢したのであったが、あくまで白《しら》をきっている夫の態度には、ますます腹が立ってならなかった。その日一日中、思い思いの仕事をして、夜も思い思いに過ごしたが、あくる朝になっても口をきく機会はなく、おせきはそのまま野良支度になろうとはしなかった。それに彼女はこないだから多少、自分の体の生理的な異状をも自覚していたのであった。
今夜はお寺で部落常会があるから、各戸、かならず誰か一人出席のこと――という役場からの「ふれ」を隣家へ廻して、そこの老婆としばらく無駄話を交換し、やがて何か見馴れぬ洋服姿の男が自家の門口を入って行った様子に、戻って見ると、それが、はからずも勇だったのだ。
「おや、誰かと思ったら。――どうも、誰かが来たように思ってはいたが――」
半年ばかり見ないでいるうちに、急に、町場の青年らしく、大人びた忰を見た彼女は、最近人に見せたことのないような嬉しげな微笑を顔いっぱいに湛えた。
勇は国防色のスフの上衣を脱ぎ、上り端へ胡座《あぐら》をかいてから、小さい新聞包みを母の方へ押しやった。
「おみやげだ。何にもなくて駄目だっけ。」
母の大好物の鰹の切身を彼は汽車を降りた町で買って来たのである。それに、別に少しばかりの東京風の菓子。そしてそれは勝やおさよや、その他の幼い者たちへ。
「みんなどうしたか。」
と彼はがらんどうの家を見廻して訊ねた。
「由次と勝は田植、さア子は今日は、出征家族の奉仕労働とかで、どうしても学校さいかなくてえなんねえなんて行っちまアし、おッちうらはその辺で遊んでいんだっぺ。」
「俺いなくて田植大変だっぺ。」
勇はこんどは土間のあたりを見廻した。貧しい小作百姓のむさ苦しい煤けた土間には、ごみごみした臼や古俵ばかりで何もなかった。
おせきは答えず、別のことを訊ねた。
「東京の方は外米だちけか。まずくてひどかっペ。」
「うむ、ひでえや、ぽそくさで、味も何もねえ。」
「ふでもどうだか、こっちの死米の麦飯と較べると、まアだ、外米の方がよくねえか。」
「うむ、どんなもんだかよ。」
「今年は、はア、洪水浸《みずびた》しの米ばかり残っていて、まアだ食いきれねえでいんだよ。いくら団子にしても、へな[#「へな」に傍点]餅にしても、鶏や牛にやってもやりきれねえ。でもようやくあれだ、と一俵半くらいになった。そのあとに、合格米が三俵、まア、どうやら残っていっから、田植だけはこれで出来べえと思っているんだ。」
おせきはしみじみとそんなことを繰りかえした。勇が聞いているかいないかなどは確かめもせず。それから彼女は調子を改めて、「今日は勇がかえったから、米の飯でも、それでは炊くべ。碌な米だねえけんど、外米よりはまさか旨かっぺから。」
そのとき「兄《あん》ちゃんが来てらア」と叫んでおちえとヨシ子が往還の方から飛びこんで来た。
「ほら、兄ちゃんだ――兄ちゃん、大きい兄ちゃん――」
しかしヨシ子はきょとんとしている。この兄を見忘れているのかも知れない。でなければ服装や何かがどこか違うので、大きいあンちゃんではなかったと思っているのかも知れない。
おみやげのキャラメルやビスケットの包みを抱かされてようやくヨシ子はにこにこと笑い出した。
おせきはその間、鰹の切身を包みから出し、「早速煮ておくかな――」としばらくぶりで匂いをかぐ海の魚に、もう満悦の思いだった。勇が工場へ――叔父清吉の行っていた東京の電気会社へ出るときまったときは、頭から反対して怒鳴り散らし、「百姓家の長男が百姓しねえなんちあるもんか、家をどうするんだ、家の相続を――」などと言ったり、「東京などへ行って……肺病にでもとっつかれて死ね、この野郎――」などと喚いたりしたのだったが、結局、一人でも口減らしをしなければ、子供があとからあとから大きくなるし、家が持たない……というそれこそ至上命令の下には、何とも抗議のしようもなくなってしまい、「そんなら出て行け、俺ら知らないから、死ぬとも生きるとも。」そんなことまで口走った彼女だったが、いまこうして見違えるほどな若者になって帰っているのをみると、やはり出してやるしかなかったし、出してやってよかったのだろうと、思いかえさざるを得なかった。
「兄ちゃん、遊びに行ってみべえ」とおちえが言ってもう甘えかかっていた。ヨシ子は相変らず黙っているが、貰ったお菓子をうれしそうに眺めて、そしてまだ口へは持ってゆかず、食べてもいいのか、怒られやしないのかというように、時々母親の方をうかがった。
「兄ちゃん、いつまでいんだ。あいよ、大きい兄ちゃん。」おちえがまたしても訊ねかける。
「今日けえるのか、あいよ。」
勇は最初答えようとしなかったが、うるさく言われて、
「はア、東京さなんど行かねえよ、こんどは遠いところさ行くんだ」と何かしら母に気がねするように、しかしわざと聞かせるかのようにも言うのであった。
おせきはそのことを感じて、
「勇ら休暇かい。それとも何か用があってかえって来たのかい。」竃の前から訊ねかけた。
「うむ――」と勇は生返事した。
勇を北満の開拓にやってもらえまいか、ということは村の青年学校の先生からの、前々からの懇望だったのである。勇にもその気がないことはなかったのだが、事情はそう単純には出来ていなかった。なるほど青少年義勇軍とかに入れば、別にこれという金は要らず、訓練から渡航、開拓……と順序を踏んで、やがては十町歩の土地持になれる。そのことは願ってもない仕合せであったが、当面、勇にいくらかでも――たとい月十五円にせよ、働いて入れてもらわなければ、家が立ち行かなかった。食う口を減らすと同時に十五円の入金――それが一先ず勇の叔父のつとめていた会社へ当人を出してやった一つの理由だったのだ。
が、今では由次が勇と代ってもよかった。ばかりでなく勇自身が、工場づとめよりは、まだ満州の方がよくはなかろうかという夢をすてきれないでいた。
「お前、なにかい、やっぱり満州さ行って見る気があるのかい」とおせきは、せき込んで訊ねた。
「とにかくどうなっか、先生が一度相談したいから、休日にかえって来ないかと言って手紙くれたからよ、それで俺、まア、とにかく、帰って来て見たんだ。」
「そうか、先生が……でも、あれだで、一度行ったら、はア、なかなか来れねえんだから、よっく、お父とも相談して、それから、決めるんなら決めなくては駄目だで。」
彼女は勇をそんな遠い寒い国にやるのがひどく気づかわれる様子だった。
午後、勇は久しぶりに白い米の飯を食って、それから青年学校の先生を訪ねて行った。
七
植付が終って、今後は田の草取りだった。黒々と成育し分蘖《ぶんけつ》しはじめた一つの稲株を見ると、浩平はとにかく得意の鼻をうごめかさずにはいられなかった。インチキ肥料でも腐れ肥料でも、利き目さえあればなア……などとつい妻に向って浴せかけたくなる衝動を、彼はじっと抑えるのに骨を折った。
おせきは肥料のことについては、もはや何も言わなかった。言ってみたところで
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