どうにもなるものではなかった。それよりは、今は彼女は出来秋の心配に移っていた。昨年のような洪水でも来られると一家はますます悲境に沈むばかりであった。厄介な存在がまた一人殖える――いまやそれが確定的だったのだ。健康な彼女は悪阻に悩むようなことはまず無いと言ってよかったのであるが、それにしてもさすがに自分で自分の肉体が持てあまされた。一人前の仕事が出来ない、それほど歯がゆいことはなかったのである。彼女は浩平の動物性を憎悪した。「丁満なことは何一つ出来ねえくせ[#「くせ」に傍点]に。このでれ[#「でれ」に傍点]助親父。」
浩平にとっては、そのことに関する限り、何とも反駁は出来なかった。実際、すでに七人もの子を産んで、今度で八人目、これからさきもその可能性は長かった。いったい、これでどうなるというのであろう。妻の肉体的負担もさることながら、自分たちのその後の負担も容易のことではなかった。
暢気《のんき》な彼もそのことを考えぬではなかったが、口では「この不精阿女。」時にはそれ位のことは言った。が、一言の下に圧倒されてしまうのだった。
「畜生。」
第一、世間体が恥しかった。出来ることなら彼女は、今度こそはなんとか処置したかった。
ところで表面は、この頃、一家は至極静穏に推移していたといってよかった。勇の北満行きはひとまず秋になってからということになった。訓練所へ入る前、彼は工場をやめて、家の仕事を手伝っていたのだ。百姓はつらい、つらい……と零《こぼ》しながらも、由次には負けず、田の草も掻き、畑の草取りもした。
お蔭で、植付が終ると同時に、大麦の調製から小麦の始末まで、器械を頼んで来て、一気にやってしまった。ただ、おせきを困らせたのは、勇の食事であった。東京の食事に馴れてしまった勇は、ぽそぽその麦飯や、屑米の団子、へな[#「へな」に傍点]餅など食べようとせず、痩せ細った身体がますます痩せて行くようなのだ。
おせきは三俵だけ残してある合格米の一俵に手をつけ、いつか二俵目にも手をつけた。さすがに勇にだけ旨い飯を食べさせ、あとの連中には別のを、というような訳にもゆかず、ついそれが家族の常用になってしまった。
「出来秋までどうしたらいいであろうか。」
そろそろそれが心配の種になって来ていた。月に二俵はどんなに節約しても食べてしまった。九月の半ばまで、まだ七俵はなければならなかった。それが一俵、他に屑米が一俵、それだけだった。
毎年々々のことだったが、おせきは田植時分からその苦労のために痩せる思いだった。出来秋まで、何の心配もなく食うだけのものは貯えておきたい、おかなければならぬ。それが農家としての不文律であり、常規でなければならなかった。でなければ曲りなりにも一家を張っている以上、人様に顔向けが出来なかった。
早く麦でも売って、その金でそっ[#「そっ」に傍点]と必要なだけの米を買いたい。ところが今年はその肝心の麦が自分勝手に売却することが出来ず、産組へ集めて、政府へ供出するのだという。そして麦俵は出したが、金が……実に、その金がまだ渡って来なかった。
全くどうしたらよかったのか。子供らの小遣銭にも不自由な日がやって来ていた。そういうやさき、また一つの難問題が降って湧いた。それは「米の調査」というこれまでかつて経験したことのない一事件だった。部落常会で助役さんの説明するところによると、今から一人|宛《あて》米二合八勺として十月一日までの数量以上を持っているものは、たとい一俵でも二俵でも政府へ供出しなければいけない。それはこの日支事変を遂行するため、日本が勝って東亜の盟主になるため、是が非でも必要な処置であり、日本農民の、それが唯一の、この際の義務である……というのであった。
常会から帰った浩平にそのことを告げられると、おせきは夜半まで、まんじりともせずに、あれこれと胸の中で算盤を弾《はじ》いた。――自家《うち》ではどうしても、これから百日と計算して、一家八人、割当だけでも約六俵は必要なのに……それが一俵しかない。うちには一俵しかございませんなどと調べに廻って来た役場や農会の方々の前に赤恥をかくようなことがどうして出来よう。――あと五俵、いや、出来ることなら六俵、それをどうしてこの際、工面したらよかったろうか。
考えても考えても、たよるのは産組へ出荷した大麦の代金だけしかなかった。つぎの朝、彼女は野良支度をしている夫へ言った。
「あの金、まだ渡して貰えねえのかどうか、組合さ行って聞いて来てくれねえか。」そして彼女は組合というものの、こういう際の不自由をぶつぶつと、まるで浩平に罪でもあるかのように、繰りかえして攻撃した。
やがて組合へ行って訊ねて来た浩平の答は、四五日中に半金位は渡るかも知れない、という空っとぼけたものだった。彼女のこれまでの経験からすると、四五日などといったって、それは半月であるか一ヵ月であるか分らなかった。
「ほんとに何ちう組合だっペ。」そのとば尻を、おせきは何時ものように浩平に持って行かなくてはいられなかった。
「お父ら、暢気もんだから……米の調べあるっちのに、どうするつもりなんだ。」
「どうするっちたって、どうもこうもあるもんか。――無《ね》えものは無え、有るものは有る、横からでも縦からでも調べた方がいいやな。こちとらのような足りねえ者には、政府の方で心配して、何俵でも廻してよこすんだっペからよ。」
「そんな無責任な親父だ。そんで、どうしてこの一家、立派に、ひとから嗤われねえように張って行けるんだ。あすこの家にはたった一俵しかなかったとよ、なんて世間に言われるの、黙って聞いていられんのか、この間抜け親父奴。」
おせきは近所に聞えるのを恐れてそれ以上言わなかったが……
そうしているうちに、とうとう調査の日がやって来てしまった。が、彼女はその前日から覚悟をきめたようだった。土間の隅に積んであるいろいろながらくた[#「がらくた」に傍点]や、古俵、叺……そんなものをきちんと整理して、それから軒下の方までおさよと勝に掃除をさせ、浩平が野良へ出てしまったあと、自分で、調査員のやって来るのを待っていた。
昼近い頃、村長と巡査、農会の書記、それからこの部落の区長とが、ぞろぞろと門口を入って来た。
土間から軒下へ出て一行を迎えたおせきは、丁寧に被っていた手拭をとって、
「これはまア、本日はご苦労さんでございます」と改まった東京風の言葉で挨拶した。
「いい日だなア。」
区長が半白の頭を見せてそれに答え、それから一行のものは、あるいは軒下に立ち、あるいは土間へ入って来て、じろじろとあたりを見廻した。おせきは少々上り気味で、誰と誰がどこに突っ立っていて、誰が米俵の方を注視していたか、そのときは識別しなかったが、あとで考えると、「米は何俵あったかね」と訊ねて、俵の方へ近づいたのは農会の書記――見知らぬ若者だったと思った。
そう訊ねられて、彼女は胸を落ちつけ、そしてはっきりと答えたつもりだった。
「はい、あの、六俵半……不合格も合せれば、ざっと七俵はございます。」
「え、四俵――」
「七俵って言ったんだど」と、それまできょとんとして眺めていた勝が訂正した。
「どれとどれだね。」
「これと、これと、これ……これ……」
俵へ触れる彼女の手先はぶるぶると震えていた。
「ああ、七俵か……そうすると、こちらは家族八人……少し余る勘定だな……一俵だけそれでは供出して貰うことになる訳だな。」
書記は紙片へ書き込んで、それからおせきに捺印させた。やがて調査の一行はどやどやと門口を出て行ったが、おせきは失神したように、軒下に突っ立っていた。
「おっ母さん、いまのあれ[#「あれ」に傍点]違っていべえな。」
勝は相変らずきょとんとした顔付で、眼ばかり輝かせていたが、こんどは、違っていても差支えないのかというように母に迫った。
「馬鹿、汝《いし》ら黙っていろ。よけいな口きくとぶんなぐるぞ」とおせきはやっと我にかえって勝をたしなめた。
底本:「犬田卯短編集 一」筑波書林
1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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