米
犬田卯
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鋤簾《じょれん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)体温|計《はか》って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かぶり[#「かぶり」に傍点]を振って
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一
三間竿の重い方の鋤簾《じょれん》を持って行かなければならぬ破目になって、勝は担いでみたが、よろよろとよろめいた。小さい右肩いっぱいに太い竿がどっしりと喰いこんで来て、肩胛骨《けんこうこつ》のあたりがぽきぽきと鳴るような気がする。ばかりでなく二足三足とあるき出すと、鋤簾の先端が左右にかぶり[#「かぶり」に傍点]を振って、それにつれて竹竿もこりこりと錐をもむように肩の皮膚をこするのだ。勝は顔中をしかめながら亀の子のように首をすくめて、腰で歩いた。
「愚図《ぐず》々々しているから、そんなのに当るんだで。」
あとから軒先を出た母親のおせきが見かねるように言って、そのよたよたした勝の恰好に思わず微笑した。
軽い方の鋤簾は、股引を穿《は》いたり手甲をつけたり、それからまた小魚を入れるぼて[#「ぼて」に傍点]笊を探しあぐねているうち、兄の由次に逸《いち》早く持って行かれてしまったのである。勝からいえば自分にあてがわれたその股引と手甲が、ことに股引が――それは昨秋東京の工場へ行った長兄がそれまで使用していたもので、全くだぶだぶで脚に合わず、上へ引っ張ってみたり下の方で折り曲げてみたり、ようやくのことで穿いたというような理由で、それで由次に遅れを取ってしまったので、
「由兄の野郎ずるいや、あとで見るッちだから。」勝はそんなことを三度も由次の後姿に向って浴びせかけたのだったが、こんどは母親に突っかかった。
「俺に股引こしらえてくれねえからだ。こんなひと[#「ひと」に傍点]のものなんど……」
「ひと[#「ひと」に傍点]のものでも自分のものでも、この野郎、それ本当の木綿ものなんだど。きょう日、スフの股引なんど、汝《いし》らに穿かせたら半日で裂《き》らしちまァわ。」
おせきは籠の中へ大きな弁当の包みや、万一の用意に四人分の蓑《みの》をつめこんで、これまたよろめくように背負い、そして足ばやに勝に追いついて一言の下にたしなめると、やがてすたすたと追い抜き、道の先の方に見える由次や夫に遅れまいと足を早めた。
勝は歯ぎしりして腰を落し、両の手で竹竿を支え上げるようにして母に抜かれまいとするが、そうすると鋤簾の奴よけいにぶらぶらとかぶり[#「かぶり」に傍点]を振って、ともすれば、小さい勝の身体を道傍へ投げとばしそうにする。
天秤籠にどさんと堆肥を盛り上げ、その上へ万能《まんのう》や泥掻きなどを突き差して担いだ親父の浩平は、そのときすでに部落を横へ出抜けて、田圃へ下りる坂道にかかっていた。雨上りの、ともすればつるりこんと滑りがちなじめついた土の上を、爪先で全身の勢いを停めながら、彼はそろそろと降りてゆく。そのあとから由次が身がるに小さい方の鋤簾をかついで、口笛を吹き吹きつづいた。由次は十六だが、昨年の稲刈り時分から眼に見えて背丈が伸び、いまでは親父の肩の辺まで届きそうになっていた。
「由、その泥掻き、お前持て。駄目だ。邪魔になって、歩きづらくて。」
親父が息を止めて言うと、彼はひょいと横あいからそれを引ったくるなり、左の肩へ鉄砲のようにかついで、そしてとっとと坂を駈け下りた。
一日も早く植えてしまわなければならぬ八反歩ばかりの田を控えて、赤ん坊の手さえ借りたい今明日、尋常六年生のおさよは無論のこと、今年入学したばかりのおちえまで学校を休ませ、そして留守居させての、文字どおり一家総動員の田植作業であった。旱魃を懸念された梅雨期の終りの、二日間打つづけの豪雨のおかげで、完全に干上ろうとしていた沼岸の掘割沿いの田が、どくどくと雨水を吸い、軟かく溶けて来ていたのだ。
明け放れの早い六月の空には何時か太陽が昇って、沼向うの平野はひときわ明るく黄金色に輝き出していた。風もなく、紺碧の沼は崇厳なほど静かだった。やがて浩平一家のものは、よちよちと蟻が長い昆虫を運ぶような恰好をして、勝が、むしろ鋤簾そのものに曳きずられるようにしてやってくるのを殿《しんがり》に、丘を下りて掘割に沿い、自分の作り田へ着いた。そのとき黄金の光りは此方《こちら》――丘の裾の長く伸びた耕地にまで輝き渡って来た。畑地の方の薄い靄を含んだ水のような空には、もう雲雀《ひばり》が高く揚《あが》って、今日一日の歓喜を前奏しつつあった。
荷を下ろすより早く彼らは各自仕事にとりかかった。おせきは万能を手にして代田《しろた》の切りかえしであった。由次は掘割へ自分の持って来た長柄の鋤簾を投げ込んで、そして泥上げである。上流の広い耕地から何時とはなしに押し流されて来て沈澱するここの泥土は、自然に多くの肥料分を含み、これさえ上げれば大してその部分だけは施肥する必要がなかったばかりか、その上、水田そのものが年一年と高くなって、いくらか秋の水害を脱れるたし[#「たし」に傍点]になったのである。
「勝、早く持って来う、この野郎」と浩平は待ちきれなくなってどなった。「なにを、それ位のもの、愚図ったれていやがるんだ。」
勝はひどく汗をたらし息を弾ませながら、やっと父親の立っている足許に鋤簾の先端を突き出すと、ばたりとそこへ竹竿を投げ出した。
「由兄の野郎、ずるいや」と彼は泣きそうに言った。
「何だ、俺がどうした。この野郎」遠くから由次が応酬した。「俺ら、自分で自分のを持って来たんだねえか。」
「だって、ひでえやい。いいから、あとで見るッちだから……」
「そんなことで喧嘩するんでねえ、この野郎ら。――勝は早く泥を掻け。」
浩平は一喝して、大きな鋤簾を水音高く掘割へ投げこんだ。
勝は帽子を被り直し、それから畦に投げ出されていた泥掻きを取って、母親が切りかえしている田の一方へ父と兄貴が浚い上げる例の泥土を、その中ほどまで掻いて来るという単純ではあるが子供の身にはやや骨の折れる仕事にとりかかった。田へ入るや否や、気持の納まらぬ彼は、丁字形の泥掻きで反対にいきなり由次の方へ泥をひっかけた。
「あれ、この野郎」由次も片脚を上げて足許の泥を跳ねとばしたが、それは勝の方へは行かず、遠く母親の方へ飛んだ。
「こら、由、何すんだ、馬鹿。」
叱られた兄貴を横眼で見て、勝は口をひん曲げ、眼玉を引っくり返してにゅっ[#「にゅっ」に傍点]とやった。いくらかそれでこじれた気分が直って、せっせとこんどは、本気に泥をかきはじめた。
それにしても次から次へと上げられる泥土を一人で掻くのは容易のことでなかった。勝は一時間もしないうちに大汗になってしまった。
「あ、メソん畜生――こら、こん畜生。」
淡緑色の小鰻が泥の中を逃げまどっている。叫びを上げた彼は泥かきを放り出し、両手をもって押えようと駈け寄った。
「おっ母さん、早く、容れもの――俺のぼて[#「ぼて」に傍点]笊――ぼて[#「ぼて」に傍点]笊、早く。」
「どこだか、ぼて[#「ぼて」に傍点]笊。――馬鹿野郎、そんなもの捕ったって、旨《うま》くもありもしねえ。」
おせきは言ったまま、しかし万能を振りつづけていた。
「捕えたよ、おっ母さん、早く……」
「馬鹿だな。そんなことしていねえで、この野郎、早くかかねえと泥たまってしようがあっか、こらっ、勝。」
父親にどなられても勝は、片手にしっかと小鰻をぶら下げたまま畦へ上って、そして自分が携えて来て、その辺へ置いたはずのぼて[#「ぼて」に傍点]笊を探しにかかった。
陽がかんかんと照り出して来た。もう子供の勝手な行動などに構っていられなかった。浩平は満身の力を鋤簾にこめて泥をすくい上げ、おせきは男のように大きく脚を踏ん張って代田を切返した。そして由次も――彼はもう三年も前から百姓仕事に引っ張り出されていたので、半人分以上、いや大人に近いまでの仕事をやってのけたのである。
二
次の日も次の日も一家のものは同じように泥上げ、代田の切返し、そして一目散に田植の準備を進めたが、肝心の肥料がまだ手に入っていなかった。自家製の堆肥だけはどうやら真似事位には入れたが、それだけでは泥の廻らない一段と高い方の田など全くどうにもならなかった。そこへは毎年きまって化成を三叺ほど叩きこんだ。ところでその肥料だが――化成のみならず魚糟配合のようなものでも、今年は品不足で(日支事変のための原料不足に加えて製造能力の低下のためだという)価額が倍にも騰貴してしまった。そんなことから、一方では増産ということが国家の至上命令となった関係上、お上の配給制度になり、浩平たちのような、買置きの出来なかった者は村の産業組合からの配給を待たなくてはならなかったのだ。そしてこの配給肥料なら、とにかく成分もたしかだし、価額も一般の肥料商から今まで買ったのよりは安く、「公定」されていた。
甚だ「うまい具合に」――村人の表現を借りると――出来ていたが、しかし実際なかなかそう行かないものとみえて、「今日来る」、「明日は必ず来る」と組合で確言するにも拘らず、まだほんの少し――桑畑への割当分しかやって来ず、「重点」と称せられる水田の分は一向姿を見せなかった。
「仕方がねえから素田を植えたさ」という者も出て来た。全く気の早い連中にとっては、甘んじて素田を植えるか、三倍もの値で商人からひそかに手に入れるかしかなかったのである。
「俺も素田でも植えっか――」と浩平は代田の準備が進むにつれてやきもき[#「やきもき」に傍点]していたが、とうとうその日の昼休みに、
「これが最後だ。組合へ行って見て、今日中に来ねえとすれば、俺も素田植えだ。畜生、こんな思いするのは生涯になかったことだ」とぷりぷり言っているとこへ、おさよが丘の坂を下りてこっちへ駈けて来る。今日も学校を休んで留守居かたがたおさよは末子のヨシを守していたのであった。
「なんだ、さア子――」といち早く見つけたおせきが声をかけた。
「肥料でも来たかな」と浩平も起ち上った。
だが、おさよの持って来た報告は、そんな耳寄りのことではなかった。
「おっ母、ヨチ子、腹痛えって泣いていっと」とおさよは、はあはあ息をきらしながら、遠くから叫んだ。
「腹が痛えって、何時から――」
おさよが近づいて説明するには、その朝言いつけられたとおり、まだ扱《こ》かない小麦の束を庭へひろげて乾していると、おちえと二人で小麦束の中へ入って歌などうたっていたが、急に黙ってしまって、縁側へ戻るなりそこへ突っ伏して、しくしく泣きだした。何だ、なんで泣くんだ、おっちにどうかされたのかと聞くと、かぶりを振って、ぽんぽが痛えんだという。手水《ちょうず》に行きたいんではないかと訊くと、いやいやする。じゃ、どうすればいいんだといっても、ただ泣いてばかりいて、自分の手では始末がつかぬと言うのである。
「それ、何時頃だか。」
「十時か十一時頃――」
「赤玉飲ませたか」とおせきはせかせかと言い放った。
「飲まねえもの、――袋から出して飲ませべと思っても、ぽき出してしまって。」
「仕様《しよう》ねえ餓鬼だな。――何か食わせやしなかったのか、李でも。」
「食わせっかい、俺ら、なんにも。」
「連れて来ればよかったんだ。」おせきは叱りつけるように言った。「この忙しいのに、痛えたってしようあるもんか。なんで連れて来ねえんだ。」
「だって、おっ母さんは……たアだ転げ廻っていて、何といってもかんぶり[#「かんぶり」に傍点]振るだけなんだもの。」
おさよはそう言って不服そうに黙った。
「腹ぐれえ何でもねえ、わざわざ知らせに来っことあるもんか、馬鹿。」
浩平も言って起ち上り、のっそりと、みんなをあとに組合さして出かけて行った。準備だけ出来ても肝心の肥料が来ないのでは、全く骨を折って植えるせい[#「せい」に傍点]はなかった。実際、彼は気が気でならなかった。黙って突っ立っていたおさよは、そのあとからぷすんと、も
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