と来た道を引かえしはじめた。
 おせきはどうすればいいか迷っていた。夫と娘の、それぞれの行動を見守っていたが、
「さア子、さア子――」と呼んだ。が、おさよは聞えたのか聞えないのか、もう振り向きもしなかった。
「大したことでもあるめえ。」彼女はひとりつぶやいて、それから一段と声を高くし、
「さア子、ヨチに赤玉飲ませて寝かせておけ。いいか、無理にでも飲ませなくては駄目だど。」
 おせきは再び田へ下りて万能を振い出した。子供の腹痛など、全く彼らは馴れっこになっていた。夫のいうように、わざわざ知らせに来るほどのことはなかったのである。
 一方、組合の事務所へ駈けつけた浩平は、自分と同じように肥料の問合せにやって来ている五六人の者と顔を合せた。
「どうだい、様子は――来そうかい。」
 ずいと入って誰にともなく言いかけると、「肥料来るかやと、組合さ来てみれば……」「肥料来もせで……」と退屈と憤懣とをごっちゃにした連中が、かけ合いで唄の文句をつぶやいていた。
「用もない、体温計など来てやがる。」
 全く呆れたことに、その体温計が小綺麗な箱へ入って配給されて来ていた。それは農村人への衛生思想注入のため、どこか厚生省あたりの肝煎りで、特に組合が実行したに相違なかった。
「体温|計《はか》ってみたところで、稲は育つめえで」と一人が言って、浩平に話しかけた。「なア、よう、台の親方。」
「うむ、そうでもあるめえで」と浩平はそこにあった椅子へ腰を下ろしながら答えた。「田の体温でも計って報告したら、そのうちに、それ、何とか、その方の医者様がかけつけてくれべえから。」
「農学博士がか。」
「うむ、まァその博士なら、これで、無肥料で増産ちう一挙両得の方法も教えてくれべえからよ。」
「それもそうだっぺけんど、これで人間の方の温度も計る必要があっぺで。みんな、はア、肥料肥料で逆《のぼ》せ上っていっからよ。いい加減のところで血圧下げてもらアねえと、村中みんな脳溢血だなんて……」
「ところがどうも、その血圧、上るばって下りっこねえ。どうだ、今の電話きいてみろ。」
 奥の部屋で、なるほど電話している組合事務係のだみ[#「だみ」に傍点]声がしている。
「……うむ、そんな訳では……なるほどな……うむ、なアる……全く、どうも、いやはや……全くこれ困っちまアな。……いくらでもいいから……はん……ははア……いや、全く……それではまず……さいなら。」
 そこでがちゃりと受話器をおく音がして、急ぎ足にスリッパを鳴らしながら係が現れた。半白の小柄な猿のような貌《かお》をしたおやじ[#「おやじ」に傍点]である。わざわざ事務机には向わず、みんなのいる方へ向って火鉢の向う側へ蹲み、両手をふふん……と言いながら組み合せた。出来るだけ七むつかしい、が誰にも当り触りのない顔を彼はそこへ作って見せたのである。
「どうだや、それでもいくらか来るあて[#「あて」に傍点]があるのかい」と一人が訊くと、
「それが、どうも――明日にならなけりゃ分らないと県の方では言っているんで……」
「明日、明日って、随分その手食ったな。まるで何かのようだぜ、組合も。」
「いや、君らはそんな冗談言っていっけんど、みろ、これで、県の方だって、組合の方だって、ここんとこ不眠不休で心配しているんだから。はア、組合長ら、昨日から寝こんじまった位だから――県庁へ行く、農林省へ行く、肥料会社まで行って見る。全くお百度踏んで、それでも何ともならねえんだ。農林省の方では、とにかく早場地方が第一だというわけで、出来るそばからそっちの方へ廻送しているらしいんだし、そこに百叺でも五十叺でもいいから、こっちへ取ろうという始末なんだから、これで、並大抵のことでは……」
「でも、山十(町の肥料屋)なんどへ行けば、一時の間に合せ位のものは、倉庫の中に昼寝しているっち話だねえか。どうだや、そいつを何とか、こうお上の力で、こっちへ廻してよこすような方法をとれねえもんかな」と中年の鬚もじゃ親父が言って、眼玉をぎょろつかせた。

     三

 それにしても、もうどんなに待ったところで、ないし別の方法によったところで、今日明日の間には合わないものと観念した方がよさそうだった。
「仕方ねえ、それこそ素田でも何でも植えべえ」と投げつけるようにいって浩平は起ち上った。
「そうだ、酢だとか蒟蒻《こんにゃく》だとか言っている場合じゃねえ。俺らもはア、すっぽりと諦めて明日は植えっちまアんだ。」さきにおばこ節を口誦んでいた一人の青年も、それにつれて突っ立ち上り、両手を天井へ届くほど伸ばして、ああ、ああ……とあくびを連発した。
 田圃への道を浩平は割り切れぬ気持でのそりのそりと戻りつつあった。町の肥料商の倉庫には確かに相当のストックがあることを彼も信じていた。小金の廻る連中は、すでにその方面から若干のものを手に入れて、どしどしと田を植えているのである。
「畜生――」と彼は思わずひとり言をかっとばした。「そんな大べら棒ってどこにある。」
「いよう、なんだや、今頃――」
 ひょいと横あいから自転車を飛ばして知合いの男が姿を現した。
「おう、君か――君こそ何だい今頃。」
「俺か――俺は商売さ。」
 ひらりと自転車を下りたその中年の男――選挙ブローカーもやれば、墓碑の下文字も書く、蚕種、桑葉、繭の仲買いもやれば、雑穀屋の真似もやると言ったような存在――俗称「塚屋」で通っているこの五尺足らずの顔面ばかりが馬鹿に大きく、両眼はあるか無きかの一線にすぎない畸形児風の男は、浩平をまともに見て、にやりと笑った。そして口ばやに、
「組合さお百度踏んでも肥料は来めえ。」
「組合長が県や政府や会社へお百度踏んでも駄目だっちだから、こちとら[#「こちとら」に傍点]がいくら、それ……」
「へへえ……」と塚屋は唇をひん曲げた。「組合長ら何処さお百度踏んだのかよ。今頃はエネルギー絞り上げられっちまって、死んだように寝てべえ。ホルモン注射でもしてやらなけりゃ、肥料も来めえで。」
 そう吐き出してから、「時に――」と塚屋は調子を改めた。「どうだや、旦那ら、はア、田植えっちまったのかい。」
「田か――田なんか俺ら植えねえつもりだ。今年は、はア、草っ葉に一任と決めた。」
「でも、それでは『増産』という政府の命令にふれべえ。」
「仕方ねえな。これ……」
「少し位なら、俺、都合つけるぜ。実はこないだからその方で、こうして歩いてるんだ。俺のような始末の悪いとんぴくれん[#「とんぴくれん」に傍点]でも、これで非常時となりゃ、いくらかまさか国家のお役に立たなくちゃア、なア。」
 そう言って塚屋は、悠々とポケットから巻煙草などをつまみ出し、一本どうだ、とばかり黙って浩平の眼の前へ袋ごと突き出した。
 浩平は「暁」を一本つまみ、
「やみ[#「やみ」に傍点]やって国家のためもあんめえ。」
 ははあ……と哄笑した。
「やみ[#「やみ」に傍点]なもんか。公定[#「公定」に傍点]で俺らやるんだ。」
「だって君、公定の配給肥料は産組でしか……」
「それはこの村での話、政府の方針としては産組に半々位に分けて配給させる方針でやっているんだぜ。」
「そうかな。……それはまア、どうでもいいが、早いとこ、何があるんだか、化成か魚糟か大豆か……」
「化成は切れっちまったが、魚糟配合があるんだ。」
「それは……山十か。誰が一体、持っているんだ。」
「君、そんなことはどうでもいい。俺と君との間の商取引だねえか。肥料は俺が持っているのさ――ひとのものなんか君、泥棒じゃあるめえし。」
「うむ、とにかく現物さえあるんなら、何も問題ではねえが……で、一叺いくらなんだ。」
「公定価額だよ」と唇を突出して言いながら、塚屋は懐中から小さい算盤を出して斜めにかざし、得意そうにぱちぱちと珠を入れた。
「そんな公定あるもんかい。」
 浩平はおっかぶせるように叫んで塚屋をにらみ、それから、ぷいとそっぽを向く。
「無えことあるもんか。どこさ行ったってこれ[#「これ」に傍点]だ。これ[#「これ」に傍点]でなかったら、こんどは見ろ、組合からだって手に入らねえから。」
 いやなら止すと言わぬばかりである。
「うむ――」と浩平は今は折れるしかなかった。「それで……何叺あるんだか。」
「君は何叺要るんだか、それによって俺の方はいくらでも都合する。」
「俺は、まア、差しあたり二十もあれば……」
「二十か、よし、都合つける。――明日でよかっぺ。」
「それはいいが、……しかし、その値段は、少し、どうかなんねえかい。」
「公定だよ、君、これを破れば、俺はやみ[#「やみ」に傍点]であげられるんだぜ。」
「そんな、それは君だけの公定だっぺ。」
「そんなこと言うんなら、俺ら止めた。――破談だ。村中のものがほしがって、はア、金つん出して待っている者さえあるんだ。君にやらなくたっていくらでも売れるんだから――いい具合に君とここで逢ったもんだから、俺、話したばかりなんだ。」
 塚屋は小さい算盤を再び懐中《ふところ》して、馴れた手つきでハンドルを握った。一刻を争う……といったような面持で、「それじゃ、まア、せっかくおかせぎ――」

     四

 田圃へかえると、由次が一人で泥上げをしていた。陽はいつか傾いてしまって、掘割を隔てた真向いの丘のかげが濃く沼岸の方へ伸びている。由次は鋤簾は重そうに投げ込み、肩に力を入れて掬うのであるが、思うように泥に喰いこまず、半分も泥は上らなかった。
「はア、泥無くなってしまって駄目だ」と由次は父親を見ると言訳《いいわけ》のように呟いた。
「おっ母と、勝は?」浩平は無意識のように訊ねた。彼の頭の中は、今の今、塚屋とやって来た取引談のことで暴風のような状態だったのだ。――公定だなんて、野郎。あらかた倍でもきくめえ。あんなもの誰が、それでは――って買えるけえ。阿呆にも程度ちうものがあらア。――だが、一方ではそれを打ち消して、しかし、反七俵に廻ってくれるようだと、なアに、あれを買ったって損はねえ。第一、元肥を打って植えるその気持だからな、そいつが千両したって買える品物じゃねえんだから……
 由次が何か答えたようであったが耳に入らず、浩平は投げ出してあった自分の鋤簾をつかみ、器械的にそれを掘割へ投げこんだ。
 さて、その頃、ヨシ子の容態が急に悪いといって、おせきは再びおさよから迎えを受け、家へとんでかえって、あれこれと気も転倒し、てんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞いを演じていた。ヨシ子は今にも眼の玉を引っくりかえしてしまいそうなどろんこの眼をして、もはや痛みを訴える力もなく、うつらうつらと、高熱の中に、四肢をぴくつかせていた。腹部を見ると、まるで死んだ蛙のようにぷくらんと膨れ上り、指先で押しても凹まないくらいだった。
「おやまア、どうしたんだや、ヨチ子――」
 おせきは初めのうち茫然として、そこに立ちつくしていた。こんな状態とは少しも考えなかったのだ。
 近所へ家を借りて別居している母のお常が、野良支度ではあったが、いつものように身綺麗な、五十を半ば過ぎているにも拘らず、まだ四十台の女のような姿態《なり》で、ヨシ子の頭部を冷やしていた。ヒマシ油か何かを飲ませようと骨折ったような形跡もあった。
 おせきは次の瞬間、自分を取りかえして、その母親の、いつものような姿態を見ると、むらむらと腹が立った。
「なんだか、おっ母さんら――」とおせきは突慳貪《つっけんどん》に叫んで、ヨシ子の枕頭からその見るに堪えないものを追いのけるように、自分の身体をぐいと持って行った。
「なんだかではあるめえ、痛がって騒いでいるの見て黙っていられっか。」
 お常はそれでも娘に遠慮して――そうしなければいられないものを彼女は持っていた――一歩そこから膝で後退した。
「いいから、おっ母さんに構ってもらいたくねえから、はア、帰ってくろ。」
「言われなくたって帰っけんどな。」そう押しかぶせて、「おせきら、俺にいつまでそんなつんつんした口きいていんだ、ようく考えてしねえと、はア、損だっぺで。」
「損でも得
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