供《きょう》せられる。元来《がんらい》、この球根にはリコリンという毒分を含んでいるが、しかしその球根を搗《つ》き砕《くだ》き、水に晒《さら》して毒分を流し去れば、食用にすることができるから、この方面からいえば、有用植物の一に数《かぞ》うることができるわけだ。
この草の生の花茎《かけい》を口で噛《か》んでみると、実にいやな味のするもので、ただちにそれが毒草《どくそう》であることが知れる。女の子供などは往々《おうおう》その茎《くき》を交互《こうご》に短く折《お》り、皮で連《つら》なったまま珠数《じゅず》のようになし、もてあそんでいることがある。
『万葉集』にイチシという植物がある。私はこれをマンジュシャゲだと確信しているが、これは今までだれも説破《せつは》したことのない私の新説である。そしてその歌というのは、
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路《みち》の辺《べ》の壱師《いちし》の花の灼然《いちしろ》く、人皆知りぬ我が恋妻を
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である。右の歌の灼然《いちしろ》の語は、このマンジュシャゲの燃ゆるがごとき赤い花に対し、実によい形容である。しかしこのイチシという方言は、今日
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