。そこで私の実検上からの観察では、これは葉腋《ようえき》にある芽を擁《よう》しているその鱗片《りんぺん》の最外《さいがい》のものが大いに増大し、大いに強力となってついにトゲにまで進展発育したものにほかならなく、それはそのトゲの位置がそれをよく暗示しているので、これは動かし難《がた》いものである、と私は自分で発見したこの自説を固守《こしゅ》している次第《しだい》だ。
 よく世人《せじん》はタチバナ(橘の字を当てているが、実は橘はクネンボの漢名であってタチバナではない)ということをいうが、それはタチバナとはどのミカンを指《さ》したものかというと、いま確説をもっていうことはできぬが、たぶん今日《こんにち》いうキシュウミカン、一名コミカンのようなミカンをいったものではなかろうかと思われる。
 かの昔、田道間守《たじまもり》が常世《とこよ》の国(今どこの国かわからぬが、多分中国の東南方面のいずれかの地であったことが想像せられる)から持って帰って来たというもので、それはむろん食用に供すべきミカンの一種であったわけだ。その当時はむろん日本ではまことに珍しいものであったに相違《そうい》ない。そしてその
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