ある。
 スミレの葉は花後《かご》に出るものは、だんだんとその大きさを増し、形も長三角形となって花の時の葉とはだいぶ形が違ってくる。
 スミレの果実は三|殻片《かくへん》からなっているので、それが開裂《かいれつ》するとまったく三つの殻片《かくへん》に分かれる。そしてその各|殻片内《かくへんない》に二列に並《なら》ぶ種子を持っている。殻片《かくへん》が開いたその際は、その種子があたかも舟に乗ったように並んでいるのだが、その殻片《かくへん》がだんだん乾《かわ》くと、その両縁が内方に向こうて収縮《しゅうしゅく》、すなわち押し狭《せば》められ、ついにその種子を圧迫《あっぱく》して急に押し出し、それを遠くへ飛ばすのである。なんの必要があってかく飛ばすのか、それは広く遠近の地面へ苗《なえ》を生《は》えさせんがためなのである。
 またそれのみならず、その種子には肉阜《にくふ》(カルンクル)と呼ぶ軟肉《なんにく》が着《つ》いていて、これが蟻《あり》の食物になるものだから、その地面に転《ころ》がっている種子を蟻《あり》が見つけると、みなそれをわが巣《す》に運び入れ、すなわちその軟肉《なんにく》を食い、その堅《かた》い種子をばもはや不用として巣の外へ出し捨てるのである。この出された種子は、その巣の辺で発芽《はつが》するか、あるいは雨水《あまみず》に流され、あるいは風に飛んで、その落ちつく先で発芽する。かくてそのスミレがそこここに繁殖《はんしょく》することになる。このように、この肉阜《にくふ》が着《つ》いている種子はクサノオウ、キケマン、タケニグサなどのものもみなそうで、いずれもみな蟻《あり》へのごちそうを持っているわけだ。かく植物界のことに気をつけると、なかなかおもしろい事柄《ことがら》が見いだされるのである。
 春いちはやく紫の花が咲くスミレにツボスミレ(今日《こんにち》の植物界ではこれをタチツボスミレといっていれど、これは畢竟《ひっきょう》不用な名でツボスミレが昔からの本名である)というものがある。このツボスミレもはやく歌人の目にとまり、万葉の歌に

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山ぶきの咲きたる野辺《のべ》のつぼすみれ
  この春の雨にさかりなりけり
茅花《つばな》抜く浅茅《あさぢ》が原のつぼすみれ
  いまさかりなり吾《あ》が恋《おも》ふらくは
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 がある。このツボスミレは前記のとおり紫花の咲くスミレで、他のスミレよりは早く開花する。野辺《のべ》ではこのツボスミレが最も早く咲き、且《か》つたくさんに咲くので、そこで歌人の心を惹《ひ》きつけたのであろう。ツボスミレは壺《つぼ》(内庭《なかにわ》のこと)スミレ、すなわち庭スミレの意である。花の後《うし》ろの距《きょ》が壺《つぼ》の形をしているからツボスミレという、という古い説はなんら取るに足《た》らない僻事《ひがごと》である。
 昔から菫の字をスミレだとしているのは、このうえもない大間違いで、菫はなんらスミレとは関係はない。いくら中国の字典《じてん》を引いて見ても、菫をスミレとする解説はいっこうにない。昔の日本の学者が何に戸惑《とまど》うたか、これをスミレだというのはばからしいことである。それを昔から今日《こんにち》に至るまでのいっさいの日本人が、古い一人の学者にそう瞞着《まんちゃく》せられていたのは、そのおめでたさ加減《かげん》、マーなんということだろう。
 菫《きん》という植物は元来《がんらい》、圃《はたけ》に作る蔬菜《そさい》の名であって、また菫菜《きんさい》とも、旱菫《かんきん》とも、旱芹《かんきん》ともいわれている。中国でも作っていれば、また朝鮮にも栽培せられて食用にしている。植物学上の所属はカラカサバナ科で、その学名は Apium graveolens L[#「L」は斜体]. である。これは西洋でも食用のため作られていて、かのセロリ(Celery)がそれである。今日《こんにち》ではこの和名《わめい》をオランダミツバというから、すなわち菫は確《たし》かにオランダミツバとせねばならなく、それがけっしてスミレではないことを、だれでも承知していなければならない。昔|文禄《ぶんろく》・慶長《けいちょう》の役《えき》の時、加藤|清正《きよまさ》が朝鮮からこの種子を持って来たというので、このオランダミツバに昔キヨマサニンジンの名があった。
 パンジーはスミレ属の一種で、三色《さんしき》スミレと呼ばれる。すなわち、一花に三つの色があるというのである。
 スイート・バイオレットはニオイスミレで園芸品となっている。通常紫色の花が咲き、香《にお》いが高いから、香気《こうき》を好《す》く西洋人に大いに貴《とうと》ばれている。いったい日本人は花の香《にお》いに冷淡《れいたん》で、あまり興
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