植物知識
牧野富太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)率直《そっちょく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)『植学|啓源《けいげん》』に、

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   (数字は、JISX0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/亭」、第4水準2−86−48]《てい》)を抽《ひ》いて直立し、
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   まえがき


 花は、率直《そっちょく》にいえば生殖器《せいしょっき》である。有名な蘭学者《らんがくしゃ》の宇田川榕庵《うだがわようあん》先生は、彼の著《ちょ》『植学|啓源《けいげん》』に、「花は動物の陰処《いんしょ》の如《ごと》し、生産|蕃息《はんそく》の資《とり》て始まる所なり」と書いておられる。すなわち花は誠《まこと》に美麗《びれい》で、且《か》つ趣味に富《と》んだ生殖器であって、動物の醜《みにく》い生殖器とは雲泥《うんでい》の差があり、とても比《くら》べものにはならない。そして見たところなんの醜悪《しゅうあく》なところは一点もこれなく、まったく美点に充《み》ち満《み》ちている。まず花弁《かべん》の色がわが眼を惹《ひ》きつける、花香《かこう》がわが鼻を撲《う》つ。なお子細《しさい》に注意すると、花の形でも萼《がく》でも、注意に値《あたい》せぬものはほとんどない。
 この花は、種子《たね》を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物《ちょうぶつ》で、植物の上には現《あらわ》れなかったであろう。そしてその花形《かけい》、花色《かしょく》、雌雄蕊《しゆうずい》の機能は種子を作る花の構《かま》えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司《つかさど》っている。(ただし最も下等なバクテリアのようなものは、体が分裂して繁殖《はんしょく》する。)
 植物にはなにゆえに種子が必要か、それは言わずと知れた子孫《しそん》を継《つ》ぐ根源であるからである。この根源があればこそ、植物の種属は絶《た》えることがなく地球の存する限り続くであろう。そしてこの種子を保護しているものが、果実である。
 草でも木でも最も勇敢《ゆうかん》に自分の子孫《しそん》を継《つ》ぎ、自分の種属を絶《た》やさぬことに全力を注《そそ》いでいる。だからいつまでも植物が地上に生活し、けっして絶滅《ぜつめつ》することがない。これは動物も同じことであり、人間も同じことであって、なんら違ったことはない。この点、上等下等の生物みな同権である。そして人間の子を生むは前記のとおり草木《くさき》と同様、わが種属を後代《こうだい》へ伝えて断《た》やさせぬためであって、別に特別な意味はない。子を生まなければ種属はついに絶《た》えてしまうにきまっている。つまりわれらは、続かす種属の中継《なかつ》ぎ役をしてこの世に生きているわけだ。
 ゆえに生物学上から見て、そこに中継《なかつ》ぎをし得なく、その義務を怠《おこた》っているものは、人間社会の反逆者であって、独身者はこれに属すると言っても、あえて差しつかえはあるまいと思う。つまり天然自然の法則に背《そむ》いているからだ。人間に男女がある以上、必ず配偶者を求むべきが当然の道ではないか。
 動物が子孫を継《つ》ぐべき子供のために、その全生涯を捧《ささ》げていることは蝉《せみ》の例でもよくわかる。暑い夏に鳴きつづけている蝉《せみ》は雄蝉《おすぜみ》であって、一生懸命《いっしょうけんめい》に雌蝉《めすぜみ》を呼んでいるのである。うまくランデブーすれば、雄蝉《おすぜみ》は莞爾《かんじ》として死出《しで》の旅路《たびじ》へと急ぎ、憐《あわ》れにも木から落ちて死骸《しがい》を地に曝《さら》し、蟻《あり》の餌《え》となる。
 しかし雌蝉《めすぜみ》は卵を生むまでは生き残るが、卵を生むが最後、雄蝉《おすぜみ》の後《あと》を追って死んでゆく。いわゆる蝉《せみ》と生まれて地上に出《い》でては、まったく生殖のために全力を打ち込んだわけだ。これは草でも、木でも、虫でも、鳥でも、獣《けもの》でも、人でも、その点はなんら変わったことはない、つまり生物はみな同じだ。
 われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美《たんび》するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観《しょうかん》して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠《まこと》に迷惑至極《めいわくしごく》と歎《かこ》つであろう。花のために、一掬《いっきく》の涙があってもよいではないか。
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