かせて書いたものであるから、まずい点もそこここにあるであろうことを恐縮している。要するに失礼な申し分ではあれど、読者諸君を草木《くさき》に対しては素人《しろうと》であると仮定し、そんな御方《おかた》になるべく植物趣味を感じてもらいたさに、わざとこんな文章、それは口でお話するようなしごく通俗な文章を書いてみたのである。もし諸君がこの文章を読んでいささかでも植物趣味を感ぜられ、且《か》つあわせて多少でも植物知識を得られたならば、筆者の私は大いに満足するところである。
われらを取り巻いている物の中で、植物ほど人生と深い関係を持っているものは少ない。まず世界に植物すなわち草木がなかったなら、われらはけっして生きてはいけないことで、その重要さが判《わか》るではないか。われらの衣食住はその資源を植物に仰《あお》いでいるものが多いことを見ても、その訳《わけ》がうなずかれる。
植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、且《か》つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然《てんねん》の賜《たまもの》である。実にこれは人生の至宝《しほう》であると言っても、けっして溢言《いつげん》ではないのであろう。
翠色《すいしょく》滴《した》たる草木の葉のみを望んでも、だれもその美と爽快《そうかい》とに打たれないものはあるまい。これが一年中われらの周囲の景致《けいち》である。またその上に植物には紅白紫黄《こうはくしおう》、色とりどりの花が咲き、吾人《ごじん》の眼を楽しませることひととおりではない。だれもこの天から授《さず》かった花を愛せぬものはあるまい。そしてそれが人間の心境《しんきょう》に影響すれば、悪人《あくにん》も善人《ぜんにん》になるであろう。荒《すさ》んだ人も雅《みや》びな人となるであろう。罪人《ざいにん》もその過去を悔悟《かいご》するであろう。そんなことなど思いめぐらしてみると、この微妙な植物は一の宗教である、と言えないことはあるまい。
自然の宗教! その本尊《ほんぞん》は植物。なんら儒教《じゅきょう》、仏教と異なるところはない。今日《こんにち》私は飽《あ》くまでもこの自然宗教にひたりながら日々を愉快《ゆかい》に過《す》ごしていて、なんら不平の気持はなく、心はいつも平々坦々《へいへいたんたん》である。そしてそれがわが健康にも響《ひび》いて、今年八十八歳のこの白髪《はくはつ》のオヤジすこぶる元気で、夜も二時ごろまで勉強を続けて飽《あ》くことを知らない。時には夜明けまで仕事をしている。畢竟《ひっきょう》これは平素《へいそ》天然を楽しんでいるおかげであろう。実に天然こそ神である。天然が人生に及ぼす影響は、まことに至大至重《しだいしちょう》であると言うべきだ。
植物の研究が進むと、ために人間社会を幸福に導《みちび》き人生を厚くする。植物を資源とする工業の勃興《ぼっこう》は国の富《とみ》を殖《ふ》やし、したがって国民の生活を裕《ゆた》かにする。ゆえに国民が植物に関心を持つと持たぬとによって、国の貧富《ひんぷ》、したがって人間の貧富が分かれるわけだ。貧《ひん》すれば、その間に罪悪《ざいあく》が生じて世が乱れるが、富《と》めば、余裕《よゆう》を生じて人間同士の礼節《れいせつ》も敦《あつ》くなり、風俗も良くなり、国民の幸福を招致《しょうち》することになる。想《おも》えば植物の徳大なるかなであると言うべきである。
人間は生きている間が花である。わずかな短かい浮世《うきよ》である。その間に大いに勉強して身を修め、徳を積み、智《ち》を磨《みが》き、人のために尽《つ》くし、国のために務《つと》め、ないしはまた自分のために楽しみ、善人として一生を幸福に送ることは人間として大いに意義がある。酔生夢死《すいせいむし》するほど馬鹿《ばか》なものはない。この世に生まれ来るのはただ一度きりであることを思えば、この生きている間をうかうかと無為《むい》に過《す》ごしてはもったいなく、実に神に対しても申し訳《わけ》がないではないか。
私はかつて左のとおり書いたことがあった。
「私は草木《くさき》に愛を持つことによって人間愛を養《やしな》うことができる、と確信して疑わぬのである。もしも私が日蓮《にちれん》ほどの偉物《えらぶつ》であったなら、きっと私は、草木を本尊《ほんぞん》とする宗教を樹立《じゅりつ》してみせることができると思っている。私は今|草木《くさき》を無駄《むだ》に枯《か》らすことをようしなくなった。また私は蟻《あり》一ぴきでも虫などでも、それを無残《むざん》に殺すことをようしなくなった。この慈悲的《じひてき》の心、すなわちその思いやりの心を私はなんで養《やしな》い得たか、私はわが愛する草木でこれを培《つちこ》うた。また私は
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