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[#「ボントクタデ(飯沼慾斎著『草木図説』の図)(下方の花穂の一部ならびに果実の二つは牧野補入)」のキャプション付きの図(fig46820_13.png)入る]

  婆羅門参

 キク科の一植物に、我国植物界で婆羅門参、すなわちバラモンジンと呼んでいる南欧原産の越年草があって Tragopogon porrifolius L[#「L」は斜体]. の学名を有する。そしてこれを一つにムギナデシコというのであるが、これはその緑の葉が軟くて長くてあたかも麦の葉のようで、そしてその紫色の花をナデシコのに擬したものである。このムギナデシコの名はふるく徳川時代の嘉永年間頃に出来たものだが、このムギナデシコに対しての名のバラモンジンは新しく明治年間に付けたもののようだ。私の知るところでは明治八年に発行になった田中芳男《たなかよしお》、小野職※[#「殻/心」、59−7]《おのもとよし》増訂の『新訂草木図説』にこの名が初めて出ているから、多分あるいはその頃に用い始めたものであろうか。そして右田中、小野の両氏がどこからこの名を釣出して来たのか、今私には不明である。彼のロブスチード氏の『英華字典』などにもそんな名は見付からない。私はその出典が知りたいのだが、そのうちどこかから捜し出してみようと思っている。もしも誰か御承知の御方があれば私の蒙を啓いていただきたい。
 元来この Tragopogon porrifolius L[#「L」は斜体]. をバラモンジンと名づけたのは不穏当であった。何んとなれば婆羅門参はヒガンバナ科のキンバイザサすなわち仙茅《センボウ》の一名であるからである。李時珍《りじちん》の『本草綱目』によれば、仙茅の条下に「始メ西域ナル婆羅門ノ僧、方ヲ玄宗ニ献ズルニ因テノ故ニ、今江南ニテ呼ンデ婆羅門参卜為ス、言フコヽロハ其功ノ補スルコト人参ノ如ケレバナリ」(漢文)と述べている。すなわち婆羅門参の由来はこの如くであって、それはキンバイザサの名にほかならない。
 このムギナデシコは欧州では Salsify, Vegetable−Oyster(植物|牡蠣《カキ》)Oyster−Plant(牡蠣植物)Oyster−root(牡蠣根)Purple Goat's−beard(紫山羊髯《ムラサキヤギヒゲ》)Jerusalem Star(「エルサレム」ノ星)Nap−at−Noon(昼寝草《ヒルネグサ》)といわれ、その直根は軟くて甘味を含み、多少香気もありかつ滋養分もあるので食品として貴ばれる。またこれは発汗剤になるともいわれ、そしてその極く嫩い葉はサラドとして美味である。
 属名の Tragopogon は Tragos(山羊《ヤギ》)pogon(鬚《ヒゲ》)のギリシャ語から成ったもので、それはその長い冠毛の鬚に基づいて名づけたものであろう。そして種名の porrifolius はリーキ葉ノという意味だが、このリーキはネギ属(Allium)の Leek で Allium porrum L[#「L」は斜体]. の学名を有しニラネギと呼ぶものである。今我国でも所により作られている。

  茶の銘玉露の由来

 製したお茶の銘の玉露(ギョクロ)は今極く普通に呼ばれている名であることは誰も知らない人はなかろう。ところがこれに反して、その玉露の名の由来に至っては、これを知っている人は世間にすくないのではないかと思う。
 明治七年(1874)十一月に当時の新川《にいかわ》県(今の富山県の一部)で発兌《はつだ》になった『茶園栽培問答』と題する書物があって、同県の茶園連中が山城の茶名産地宇治から教師を聘して茶のことを問いただし、その教師の答を記したものである。その中に「玉露の由来」という一項があって問答しているから、次にこれを抄出する。

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問 玉露と云茶は如何の茶にて何故玉露 と申す訳でござる。
答 玉露は覆《おおい》をせし茶の総名でござる今より四十年足らず先より始まりたる茶にて其由来は去る頃大阪の竹商人某と云者折々宇治に来り濃茶薄茶を製するを見てふと心付此葉を以て煎茶に製せん事を木幡村の一ノ瀬と云人に頼み製しめしに元来肥え物の沢山に仕込たる茶なるが故に揉む時分に手の内にねばり付き葉は尽《ことごと》く丸く玉の様に出来上りたるを其儘|急須《きゅうす》に入れ試みしに実に甘露の味ひを含めり是より追々此製世に広まりたり其始め玉の様にて甘味あるを以て誰れ言となくたまのつゆと名付しものを今は音読みして玉露と名付し訳でござる。
[#ここで字下げ終わり]

 しかるに大槻文彦《おおつきふみひこ》博士の『大言海《だいげんかい》』には「ぎョくろ 玉露 製茶ノ銘、上品ナル煎茶ノモノ 文化年中ヨリ、山城宇治ニテ製シ始ム、其葉ヲ蒸ス時、上ニ新藁ヲ覆ヒトシ、ソレヨリ滴ル露ヲ受ケテ、甘味ヲ生ズト云フ」とあって、その玉露の語原がいささか前説とは違っている。これはいずれが本当か。そしてこの『大言海』の説はなんの書から移したものか今私には分らないが、その玉露の語の原因はどうも前説の『茶園栽培問答』の方が真実であるように感ずる。

  御会式桜

 毎年十月十三日は、弘安五年(1282)に、武州池上の本門寺で入寂した日蓮上人忌日の御会式《おえしき》で、またこれを法花会式《ほっけえしき》とも御命講《おめいこう》とも日蓮忌ともいわれる。この会式の催される時分にちょうど花の咲くサクラがあって、通常これは御会式桜《オエシキザクラ》と呼ばれ、往々それをお寺の庭などにも見受けるのだが、ありがた連中、随喜の涙にむせぶ連中はこのサクラの開花を仰ぎ見て、さも仏様の功徳によってそれが自然へ感応し、さてこそその花が有情に開くのだと感銘しているのであろう。そして世の中にこんな連中があればこそ仏様も立ちゆく訳で、万歳であり万々歳であろう。世間は広いので商売の工夫も商売道具もいろいろとあるもんだ。
 さてこのサクラたるや、何も御会式とはなんの関係もなくまたなんの因縁もない。ゆえに御会式があろうがあるまいが、時が来れば吾不関焉《われかんせずえん》と咲き出づる、ちょうどこの秋時分に狂花《かえりざき》のように開花するためにこのサクラが利用せられているのである。サクラ喜こべサクラ喜こべ、オマエの運が回って来た。
 このサクラの本名は十月《ジュウガツ》ザクラというもんだ。すなわち彼岸《ヒガン》ザクラ(東京の人のいうヒガンザクラは『大和本草《やまとほんぞう》』にあるウバザクラで、一つにウバヒガンと呼ばれまたアヅマヒガンともエドヒガンとも称えられるものである)一名小ザクラの一変種で、私は早くからこれを研究して Prunus subhirtella Miq[#「Miq」は斜体]. var. autumnalis Makino[#「Makino」は斜体] の学名をつけて発表しておいた。
 この十月ザクラは絶えて野生はないのだが、国内諸所に植わっており、何も珍種と称するほどのものではない。秋季に一番よく花が咲き、そして冬を越して春になってもまた花が咲くのだが、しかし秋よりは樹上に花の数が少ない。その花は小さくて淡紅色で普通には半八重咲だが、また一重咲のものもある。そして秋の花には往々多少は枝に葉を伴っている。
 大和奈良公園二月堂の辺にもこのサクラが一本あった。奈良ではこれを四季《シキ》ザクラと呼んでいる。

  贋の菩提樹

 往々お寺の庭に菩提樹《ボダイジュ》と唱えて植わっている落葉樹があって、幹は立ち枝を張って時に大木となっている。お寺ではこれを本当の菩提樹だと信じて珍重し誇っているが、豈《あ》に図らんや、これはみな贋の菩提樹で正真正銘のものではないことに気がつかないのは情けない。殊に小さい円いその実で数珠を作って、これを爪繰り随喜しているのはなおもって助からない。
 このいわゆる菩提樹はもと中国での誤称をその植物渡来と共に日本に伝えたものである。そしてこの樹は中国の原産でシナノキ科に属し Tilia Miqueliana Maxim[#「Maxim」は斜体]. の学名を有する。宝永六年(1709)に発行せられた貝原益軒《かいばらえきけん》の『大和本草《やまとほんぞう》』に「京都泉涌寺六角堂同寺町又叡山西塔ニアリ元亨釈書《げんこうしゃくしょ》ニ千光国師栄西入宋ノ時宋ヨリ菩提樹ノタネヲワタシテ筑前香椎ノ神宮ノ側ニウエシ事アリ報恩寺ト云寺ニアリシト云此寺ハ千光国師モロコシヨリ帰リテ初テ建シ寺也今ハ寺モ菩提樹モナシ畿内ニアルハ昔此寺ノ木ノ実ヲ伝ヘ植シニヤ」とあり、昭和四年六月発行の白井光太郎博士著『植物渡来考』ボダイジュの条下に「支那原産、本朝高僧伝及元亨釈書に後鳥羽帝の御宇僧栄西入宋し天台山にあり道邃《どうずい》法師所栽の菩提樹枝(果枝ならん)を取り商船に付し筑前香椎神祠に植ゆ、実に建久元年[牧野いう、一一九一年]なり、同六年天台山菩提樹を分ちて南都東大寺に栽ゆとあり」と書いてある。今これらの記事によると、この菩提樹渡来は相当ふるい年所をへていることが知られる。
 このいわゆる菩提樹の実が飛び散り人は植えないが、時に山地に野生の姿となっていることがあって、軽率な人はこれを本来の自生だといっているが、それは無論誤解であって本種は断じて我が日本には産しない。
 上に書いたものは贋の菩提樹であるが、しからば本当の菩提樹とはどんなものかというと、それはインドに産する常磐《ときわ》の大喬木で無花果属すなわちイチジク属に属し Ficus religiosa L[#「L」は斜体].(この種名の religiosa は宗教ノという意味)の学名を有し、釈迦がその下で説教したといわれる樹で、吾らはこれを印度菩提樹《インドボダイジュ》と呼んでいる。しかし元来はまさにこれを菩提樹といわねばならんのだが、贋ながらも上のように既に名を冒している次第だ。しかし今これを正しく改称するとしたら、インドの Ficus religiosa L[#「L」は斜体]. の方を菩提樹として本来の称呼を用い、贋の菩提樹の Tilia Miqueliana Maxim[#「Maxim」は斜体]. の方をシナノキボダイジュとして呼べばよろしく、本当はこうするのがリーズナブルだ。
 インドボダイジュの実は形が小さくて円いけれど、元来が無花果的軟質の閉頭果であるから、もとより念珠にすべくもない。
 菩提樹について『翻訳名義集《ほんやくめいぎしゅう》』によれば、この樹は一つに畢鉢羅《ヒッパツラ》樹と称する。仏がその下に坐して正覚を成等するによって、これを菩提樹というとある。またこの菩提樹は梵語ではピップラといい、ヒンドスタン等ではピッパル、ピパルあるいはピプルと呼ばれるとの事だ。

[#「ボダイジュ(贋の菩提樹)(Tillia Miqueliana Maxim[#「Maxim」は斜体].)原図、ただし果実ならびに花の図解剖諸事は白沢保美著『日本森林樹木図譜』による」のキャプション付きの図(fig46820_14.png)入る]
[#「菩提樹(Ficus religiosa L[#「L」は斜体].)インド産菩提樹の真品(いわゆるインドボダイジュ)」のキャプション付きの図(fig46820_15.png)入る]

  小野蘭山先生の髑髏

 この蘭山《らんざん》小野先生の髑髏の写真はじつに珍中の珍で容易に見ることの出来ないものである。ここに文化七年(1810)に物故せるこの偉人の髑髏を拝することを得たる事実は、この上もない幸運であるといえる。先生の幾多貴重な名著、殊に白眉の『本草綱目啓蒙《ほんぞうこうもくけいもう》』四十八巻のような有益な書物は、生前この髑髏の頭蓋骨内に宿った非凡な頭脳からほとばしり出た能力の結晶であることを想えば、今ここにこの影像に対してうたた敬虔の念が油然として湧き出づるのを禁じ得ない。私においてはもとよりであるが、併せて読者|諸彦《しょげん》に対しても同じくこの尊影に向って合掌せられんことを御願いする。
 蘭
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