R先生はもと京都の人で名を職博《もとひろ》と称え、俗称を記内といった。そして我国本草学中興の明星であり、四方の学徒その学風を望んでみな先生を宗とし、あたかも北辰其所に居て衆星これに共《むか》うが如くに、その教えに浴したものである。
 二十五歳の時代から自邸において弟子を集め本草学を講義していて敢えて官途には就かなかった。先生は若いときから読書が好きで松岡恕菴《まつおかじょあん》の門に学び本草の学を受けた。非常に物覚えのよい人で一度見聞きしたことは終生忘れなかった。
 七十一歳に達したとき幕府に召されて東都(東京)に来り、医官に列して本草学と医学とを医学館で講義した。そして時に触れては諸国へ採薬旅行を試みた。先生の書斎衆芳軒はまるで雑品室のようで、室内には書籍や参考資料や研究材料がイヤというほど一杯に満ちて足のふみ場もなく、先生は僅かにその間に体を容れて坐り机に向かってあるいは書を読みあるいはそれを筆写しまたは抄録しまた実物を研鑚せられた。その間気が向けば笛を吹き興が湧けば詩をも賦せられた。シーボルトは先生を日本のリンネだと称讃した。先生は元来近眼であったが眼鏡は掛けなかった。そして灯下で字を写すにも平気で筆を運ばせ、また草木の写生図もよくした。松岡恕菴の『蘭品《らんぴん》』並に島田充房《しまだみつふさ》の『花彙《かい》』に先生の描かれた見事な図がある。
 先生は享保十四年(1729)八月二十一日に京都の桜木町で生まれたが、前記の如く文化七年(1810)正月二十七日に八十二歳の高齢に達して東都医学館の官舎で病歿し、浅草田島町の誓願寺に葬られて墓碑が建った。
 この偉人の墳塋《ぼえい》は右に記したように誓願寺に在ったのだが、後ち昭和四年に練馬南町の迎接院(浄土宗)に改葬せられた。そして改葬の際先生の髑髏がその後裔によって親しく撮影せられ、私は同遺族小野家主人の好意でこの写真を秘蔵する光栄に浴し得たのである。

[#「小野蘭山先生の髑髏」のキャプション付きの写真(fig46820_16.png)入る]
[#「ホルトソウ 半枝連、続随子(小野蘭山筆)」のキャプション付きの図(fig46820_17.png)入る]

  秋海棠

 私はこれまでに秋海棠が日本に自生していると聞かされたことが一再ではなかった。が、しかし秋海棠は断じて我国には自生はない。それがあるように見えるのは、もと栽えてあったものから解放せられて自生の姿を呈しているので、そこで軽忽な人を瞞化しているにすぎない。そしてその自生姿を展開し繁殖している場所がいつも御寺の境内とかまたはその付近とかに限られている。例えば紀州の那智山とか房州の清澄山とかにそれがあるというのもまたこの類にすぎない。野州のある寺の付近の斜面崖地にもまた同じく自由に繁殖しているところがあった。
 元来秋海棠は群を成して繁殖しやすい性質をもっている。すなわちそれは主としてその体上に生じている多くの肉芽からである。この肉芽は無論空中を飛ばないからその繁殖は大分限定せられている。花後の果実からも無数の軽い砕小種子が散出するから、この種子からもまた新苗の萌出することがある訳だが、私はまだ右種子からの仔苗を見ない。
 秋海棠は中国名すなわち漢名である。これを音読したシュウカイドウが和名となっている。元禄十一年(1698)に出版された貝原|損軒《そんけん》(益軒)の『花譜』には「正保《しょうほ》の比《ころ》はじめてもろこしより長崎へきたる」と述べ、また宝永六年(1709)出版の同著者『大和本草《やまとほんぞう》』によれば秋海棠の条下に「寛永年中ニ中華ヨリ初テ長崎ニ来ル、ソレヨリ以前ハ本邦ニナシ花ノ色海棠ニ似タリ故ニ名ヅク」と書いてあるが、同人の著書でありながら一つは正保といい一つは寛永という、果たしてどれが本当か。そして上文でみても秋海棠が我が日本の産でないことが判るので、日本にその自生がある訳がないことがうなずかれる。
 秋海棠は真に美麗な花が咲き何んとなく懐しい姿である。さればこそ陳※[#「温」の「皿」に代えて「俣のつくり−口」、第4水準2−78−72]子《ちんこうし》の『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』にも秋海棠の条下に「秋色中ノ第一ト為ス――花ノ嬌冶柔媚、真ニ美人ノ粧ニ倦ムニ同ジ」と賞讃して書き「又俗ニ伝フ、昔女子アリ人ヲ懐テ至ラズ、涕涙《ているい》地ニ洒ギ遂ニ此花ヲ生ズ、故ニ色嬌トシテ女ノ面ノ如シ、名ヅケテ断腸花ト為ス」とも書いてある。このことはまた『汝南圃史《じょなんほし》』にも出ている。
 秋海棠はジャワならびに中国の原産であって Begonia Evansiana Andr[#「Andr」は斜体]. の学名を有し、またさらに Begonia discolor[#「Begonia discolor」は斜体] R. Br. ならびに Begonia grandis[#「Begonia grandis」は斜体] Dryand. の異名がある。

[#「自然の姿となっている紀州那智山の秋海棠(太田馬太郎君寄贈)」のキャプション付きの写真(fig46820_18.png)入る]

  不許葷酒入山門

 各地で寺の門に近づくと、そこによく「不許葷酒入山門」と刻した碑石の建てあることが目につく。この葷酒《くんしゅ》とは酒と葷菜とを指したものである。また時とすると「不許葷辛酒肉入山門」と刻してあるものもある。この戒めは昔のことであったが、肉食妻帯が許されてある今日では、もし碑を建てれば、多分その碑面へ「歓迎葷酒入山門」と刻するのであろうか。時世が違って反対になった。
 右の葷菜とは元来五葷といい、また五辛と呼んで口に辛く鼻に臭ある物五つを集めた名で、それは神を昏まし性欲を押さえるために用いたものといわれる。
 明の李時珍《りじちん》がその著『本草綱目《ほんぞうこうもく》』に書いたところによれば、「五葷ハ即チ五辛ニシテ其辛臭ニシテ神ヲ昏マシ性ヲ伐《ウ》ツヲ謂フナリ、錬丹家[牧野いう、身体を鍛練して無病健康ならしめる仙家の法]ハ小蒜、韭、芸薹、胡※[#「くさかんむり/綏のつくり」、第3水準1−90−85]ヲ以テ五葷ト為シ、道家ハ韭、薤、蒜、芸薹、胡※[#「くさかんむり/綏のつくり」、第3水準1−90−85]ヲ以テ五葷ト為シ、仏家ハ大蒜、小蒜、興渠、慈葱、茖葱ヲ以テ五葷ト為シ、各同ジカラズト雖ドモ、然カモ皆辛薫ノ物、生食スレバ恚《イカリ》ヲ増シ、熟食スレバ婬ヲ発シ性霊ヲ損ズ故ニ之レヲ絶ツナリ」と述べてある。右文中にある韭はニラで韮と同じである。芸薹はすなわち※[#「くさかんむり/雲」、第4水準2−86−81]薹でウンダイアブラナ(私の命名)の和名を有し、今日本でも搾油用として作っている。そして従来日本でのアブラナへこの※[#「くさかんむり/雲」、第4水準2−86−81]薹の漢名が用いてあるが、それは誤りであって、この日本のアブラナには漢名はない。胡※[#「くさかんむり/綏のつくり」、第3水準1−90−85]はカラカサバナ科のコエンドロ、薤はラッキョウ、興渠は一名薫渠で強臭のある阿魏《アギ》すなわち Asafoetida である。そしてこれを採取する原植物は Ferula foetida Reg[#「Reg」は斜体]. でカラカサバナ科に属しペルシャ辺の産である。慈葱は冬季のネギすなわち冬葱でフユネギである。そして茖葱はギョウジャニンニクで山地に自生し葉の広いものである。
 そこで問題解決で筆を馳せ云云せにゃあならんことは、小蒜と大蒜との件である。すなわちこの大蒜とはニンニクで一つに葫と呼ばれているものである。そしてこの小蒜は単に蒜と書いてあるものと同じで、それはニンニクに似た別の品種であるが、じつは私はこれの生品を一度も見たことがないのは残念だ。昔の『本草和名』だの、『本草類編』だの、また『倭名類聚鈔』だのにこれを古比留または古比流すなわちコビルといっているのは、何も実物を親しく見ての名ではなく、これは漢名小蒜の二字に基づいた紙上の名であるといってよい。またこれを米比流というのは女ビルか雌ビルかの意で小蒜から思いついた同じく紙上の名である。そしてこの小蒜はもとは野生のものを栽培して出来たように書いてある。だからそれに沢蒜だの山蒜だのの名があっても、今はこの小蒜は野生の品とは異なったものであると中国の昔の学者は弁じているが、按ずるにこれはいつか中国へはいった外国産であろうと思う。とにかく小蒜は中国で栽培せられている一種のニンニク式の品で葉を連ねてその根を煮て食うものである。李時珍がその著『本草綱目』の蒜の条下でいうには「家蒜ニ二種アリ、根茎倶ニ小ニシテ弁少ナク辣甚ダシキ者ハ蒜ナリ小蒜ナリ、根茎倶ニ大ニシテ辣多ク辛シテ甘ヲ帯ブル者ハ葫ナリ大蒜ナリ」(漢文)と述べている。また宋の宗※[#「夾」の二つの「人」に変えて「百」、第3水準1−15−74]《そうせき》がその小蒜の形状をいって「小蒜ハ即チ※[#「くさかんむり/鬲」、74−8]《ユウ》ナリ、苗ハ葱針ノ如ク、根白ク、大ナル者ハ烏芋[牧野いう、オオクログワイである、我国の学者がこの烏芋をクログワイといっているのは誤りである]ノ如ク子根[牧野いう、子は苗か]ヲ兼テ煮食フ、之レヲ宅蒜(宅は沢の誤りだといわれる)ト謂フ」(漢文)としてある。
 中国では蒜すなわち小蒜は土産品として従来からあったもの、すなわち中国産品であるが、大蒜は漢の時代に西域の胡国から来たもので葫ともまた胡蒜ともいわれている。かく大蒜が外から中国にはいってきたので、そこで中国で従来からの蒜を小蒜と呼ぶようになった訳だ。愚考するにこの小蒜が多分 Allium sativum L[#「L」は斜体]. すなわち Garlic そのもので、これは松村任三《まつむらじんぞう》博士の『改訂植物名彙』前編漢名之部に出ている小蒜すなわち蒜である。松岡恕菴《まつおかじょあん》の『用薬須知《ようやくすち》』に小蒜をノビルとしてあるのは非である。また『倭漢三才図会《わかんさんさいずえ》』に蒜すなわち小蒜をコビル、メビルとしてあるのは古名に従ったので、それはよいとして、さらにこれをニンニクとしてあるのはよろしくない。また大蒜すなわち葫(古名オオヒル)をオオニンニクとしてあるのも不必要な贅名で、これは単にニンニクでよい訳だ。そして葫《こ》すなわち大蒜のニンニクの学名は Allium sativum L[#「L」は斜体]. var. pekinense Maekawa[#「Maekawa」は斜体](=Allium pekinense Prokh[#「Allium pekinense Prokh」は斜体].=Allium sativum[#「Allium sativum」は斜体] L. forma pekinense[#「forma pekinense」は斜体] Makino)である。
 ニンニクは昔はオオヒルといったが、この称えは今は廃れそのオオヒルは古名となった。日本で昔単にヒル(その鱗茎を食うと口がヒリヒリするのでいう)と呼んだのは、実際はニンニクをいったものだが、書物の上ではこのニンニクのオオビルとコビルすなわちメビルとの二つを指して、かくヒルというとなっている。私は今このコビルをニンニクに対せしむるためにそれを新称してコニンニクともいってみたい。それはニンニクに比べればやや小形だからである。
 Allium sativum L[#「L」は斜体]. の和名はコビル(コニンニク)であるから、その俗名の Garlic もまた厳格にいえば同じくこれをコビルとせねばならない。普通の英和辞書にあるように単にニンニクでは正解ではない訳だが、先ず先ず通俗にいえばそれでも許しておけるであろう。そして強いてニンニクの俗名を作ればすなわち Large Garlic とでもすべきものだ。

  日本で最大の南天材

 明治三十九年(1906)八月に滋賀県の人々の主催で、近江伊吹山植物講習会が開かれ、四方から雲集した講習員は約三百名もあった。
前へ 次へ
全37ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 富太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング