習俗である。そして当時その中へ漬ける蕪は同地普く栽培せられてある赤カブであったが、今はどうなっているだろうか。また右漬物用の菌はどんな種類であるのか調査してみたいものだ。日本の菌学者はこの好季に一度見学に出陣してはどうか、必ず得るところがあるのは請合だ。
[#「マグソダケ(馬糞蕈)[食用]Panaeolus fimicola Fries[#「Fries」は斜体]=Coprinarius fimicola[#「Coprinarius fimicola」は斜体] Schroet.=Agaricus fimicola[#「Agaricus fimicola」は斜体] Fries.」のキャプション付きの図(fig46820_09.png)入る]
昔の草餅、今の草餅
草餅に昔の草餅と今の草餅とのふた通りがある。昔の草餅は今日はほとんど跡を断って、僅に存する程度である。
昔は草餅をこしらえるには、みなホウコグサ(ホーコグサ)[ハハコグサすなわち母子草の名は実はこの草本来の名ではなく、これは昔『文徳実録《もんどくじつろく》』という書物の著者が、よい加減な作り話をその書物の中へ書いたので、それがもとでこの名がその時から生じた。母子草なんていう名はそれ以前には全くなかった]すなわち鼠麹草《ソキクソウ》の葉を用いた。このホウコグサはキク科の Gnaphalium multiceps Wall[#「Wall」は斜体]. で、北インド、中国、ならびに日本に分布した越年草であって、我国では『本草綱目啓蒙』によれば古名オギョウのほかトウコ、トウゴ、モチバナ、モチブツ、コウジブツ、モチヨモギ、ジョウロウヨモギ、ゴキョウブツ、ゴキョブツ、ゴキョウヨモギ、トノサマヨモギ、トノサマタバコ、カワチチコ、コウジバナ、ツヅミグサ、ネバリモチ、モチグサの沢山な名が挙げられてある。
青木昆陽《あおきこんよう》(甘藷先生といわれる学者)の『昆陽漫録《こんようまんろく》』に「我国ノ古ヘノ草※[#「米+羔」、第3水準1−89−86][牧野いう、※[#「米+羔」、第3水準1−89−86]はモチ]ハ鼠麹草《ソキクソウ》ナリ」とある。また「今ノ艾※[#「米+羔」、第3水準1−89−86]《ガイコウ》ハ朝鮮国ヨリ伝ヘシニヤ朝鮮ハ我国ヘ近キユヘ我邦ノ風俗ノ移リタルニヤ朝鮮賦注ニ艾※[#「米+羔」、第3水準1−89−86]アリ其文左ノ如シ。
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三月三日取[#二]嫩艾葉[#一]雑[#(ヘ)][#二]※[#「禾+亢」、第3水準1−89−40]米粉[#(ニ)][#一]蒸為[#(シテ)][#レ]※[#「米+羔」、第3水準1−89−86]謂[#二]之艾※[#「米+羔」、第3水準1−89−86][#一]」
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とある。※[#「米+羔」、第3水準1−89−86]はモチ、※[#「禾+亢」、第3水準1−89−40]は粳と同じウルチネである。
我国春の七草の内に御行《オギョウ》(五行《ゴギョウ》と書くは非)がある。このオギョウはすなわち鼠麹草のホウコグサである。この時代には食物としてもこれを用いたことが分かる。今日でも千葉県上総、鳥取県因幡のある地方ではこれで草餅をつくることがある。すなわち上総山部郡の土気地方では、十二月から一月にかけて村の婦女子等が連れ立ってホウコグサの苗を田の畦などへ摘みに出でて採り来り、それを充分によく乾燥させる、そしてこの材料を入れて粟餅《あわもち》を製するのだが、その時は粟を蒸籠《せいろう》に入れその上に乾かしておいたホウコグサを載せて搗き込むと粟餅が出来るのである。このホウコグサを入れたものを入れぬものと比べると、入れた方がずっと風味がよい。そしてこの風習が今日なお同地に遺っていると友人石井|勇義《ゆうぎ》君の話であった。しかしこんな習慣は次第になくなる傾向をたどっているようだ。
昔は旧暦三月三日の雛祭すなわち雛の節句には各家で草餅をこしらえたものだ。しかしホウコグサは葉が小さい上に量も少なく、緑色も淡く別に香気もないから、この草を用いることは次第に廃れゆき、さらに野に沢山生えていて緑の色も深くかつよい香いのするヨモギ(艾《ガイ》である、蓬と書くのは大間違いで蓬はけっしてヨモギではない)がこれに代わって登場したものである。ゆえにこのヨモギを一般の人々はモチクサ(餅草)と呼んで、誰もよく知っている。
ホウコグサもヨモギも餅にするには元来その葉の綿毛を利用したもので、往時は一つにはこれを餅の繋ぎにしたものだ。今日ヤマボクチ(通常ヤマゴボウと呼び、また所によってはネンネンバと称えている)も葉裏の綿毛を利用して餅に入れ、また所によってはキツネアザミ、ホクチアザミなども用いられる。今日では餅に粘り気の多い糯米を用いるからそんな繋ぎは入用がないようだが、昔は多分|粳《ウルチ》を用いたろうから自然繋ぎの必要を感じたのであろう。
ハナタデ
蓼《タデ》の属にハナタデすなわち花蓼というものが前々からあり、それが岩崎灌園《いわさきかんえん》の『本草図譜《ほんぞうずふ》』巻之十七に出ていて「ハナタデ、道傍に多し形青蓼に似て花淡紅色なり小児アカノマンマ」と呼ぶと書いてある。また水谷豊文《みずのほうぶん》の『物品識名拾遺《ぶつひんしきめいしゅい》』にも「ハナタデイヌタデノ類ニシテ花紅色馬蓼一種」と出ている。すなわちこれはこれらの書物に書いてあるように、東京の女の児などが、アカノマンマ(赤の飯)、あるいは地方の子供などがキツネノオコワ(狐の御強飯)と呼んで遊ぶものである。
ハナタデとはなぜこれにそんな名を負わせたかというと、その花穂が紅色ですこぶる美観を呈するからである。秋になってそのよく繁茂した株ではその茎枝を分って四方に拡がり、それに多数の花穂が競い出て赤い花が咲いている秋の風情はなかなか捨て難いものである。これにたまたま白花品があって、これがシロバナハナタデと呼ばれる。
今日我が植物学界ではこのハナタデをイヌタデと呼んでいる。これは飯沼慾斎《いいぬまよくさい》の『草木図説《そうもくずせつ》』に従ったものだ。しかしこのイヌタデの名は元来間違っているから、今これを矯正する必要を認める。そこで私は今後この種から間違っているイヌタデの名を褫奪《ちだつ》して、これを本来の正しい名のハナタデに還元させることに躊躇しない。
今日いう、ハナタデの名も上の『草木図説』に従ったものだが、これも誤りであるから私は新たにこれをヤブタデと名づけた。その花穂は痩せ花は小さくて貧弱、色は淡紅紫で浅く、けっして花タデの名にふさわしくない。私は以前からこんな花のものがどうして花タデの名であるのかと常にこれを怪しんでいたが、果たせるかな本当のハナタデはこれではなかった。
[#「ハナタデ一名アカノマンマ(誤称イヌタデ)」のキャプション付きの図(fig46820_10.png)入る]
[#「ヤブタデ(誤称ハナタデ)」のキャプション付きの図(fig46820_11.png)入る]
イヌタデ
元来|蓼《タデ》はその味の辛いのが本領であって、『秘伝花鏡《ひでんかきょう》』にも「蓼ハ辛草也」とある。すなわちその辛辣な味が貴ばれる。そこでこの辛味ある蓼を本蓼《ホンタデ》とも真蓼《マタデ》ともいっている。そしてその辛味のないものを犬蓼《イヌタデ》と称する。すなわち役立たぬ蓼の意である。大槻博士の『大言海』によれば、タデは「爛レノ意ニテ口舌ニ辛キヨリ云フト云フ」と出ている。
小野蘭山の『本草綱目啓蒙』馬蓼イヌタデの条下に「品類多シ野生シテ辛味ナク食用ニ堪ザル者ヲ皆イヌタデ或ハ河原タデト呼ミナ馬蓼ナリ」とある。これでみるとイヌタデとは一種の蓼の名ではなく、すなわち辛くない蓼の総称である。ゆえにアカノママの一つを特にイヌタデと限定した名で呼ぶのはよろしくない。
昔にはオオケタデすなわち蓼草をイヌタデといったが、今日は既にこの名は廃絶している。そしてこれは深江輔仁《ふかえのすけひと》の『本草和名』に「和名以奴多天」と出ているから最も古く一千余年も前からの名であることが知られる。
日本で辛味のある蓼はただ一種ヤナギタデ(アザブタデがじつはヤナギタデで、この蓼は野生はなく圃につくってあって、その葉を料理に用いる)すなわち Polygonum Hydropiper L[#「L」は斜体]. があるだけである。その原種は水辺に野生してこれは敢えて食用に利用せられてはいないが(無論利用は出来る)、これから変わって出た上のアザブタデほかのムラサキタデ、アイタデ、ホソバタデ、イトタデなども多く人家に栽えてあって、同じくその葉が食用に供せられる。
ヤナギタデが水中に生活するときは往々冬を越して青々としている。彼のカワタデまたはミゾタデと呼ぶものは流れる水底に生きている。『草木図説』巻之七カハタデ一名ミヅタデ(『新訂草木図説』ではミヅタデとなっている)の条下に図を載せ、「山辺清流ノ中ニ生ジ。流ニ従ツテ長ク水底ニ引キ。節々根ヲ下ス。葉ヤナギタデニ似テ長ジテ尖鋭。鞘葉|※[#「竹かんむり/擇」、56−3]《タク》他ノ蓼類ト同ジク。※[#「竹かんむり/擇」、56−3]中枝ヲ出シ簇々《ソウソウ》繁茂シ。四時常ニ衰ヘズ。冬猶青翠芽ヲ出シ。味至テ辛ク可食偶々浅瀬ニアツテ擡起スレバ秋花アリ。家蓼ヨリハ大ニシテ半開白色淡緑暈アリ。蕾ニアツテハ尖ニ淡紅暈ヲミル。二柱六雄蕋ナルコト亦ヤナギタデノ如シ。常ニ水底ニアレバ開花ニ不及。※[#「竹かんむり/擇」、56−6]中ニ於テ直ニ結実スルニ至ル」と書いてある。
早春、水に湿った田に往々低い茎のあるいは立ちあるいは横斜したヤナギタデが越冬して残り、田面をわたる東風に揺れつつ早くも開花結実しているのを見かけるが、これはなんら他の種ではなく、別になんらの名を設ける必要もなく、やはりそれは Polygonum Hydropiper L[#「L」は斜体]. にほかならない。私は前々から時々これに出会っているからよくその委細を呑みこんでいる。軽率な人はこれを別種のものとしているが、それはけっして穏健な意見ではない。
[#「カワタデ一名ミゾタデ(飯沼慾斎著『草木図説』)」のキャプション付きの図(fig46820_12.png)入る]
ボントクタデ
ボントクタデ、ちょっと意味の分りかねるおかしな名前の蓼なので、私は久しい間なんとかその訳が知れんもんかと思っていた。
以前備中で植物採集会があって、私は集まった会員を指導しつつ野外の地を歩いた。その時はちょうど秋であって、折りから路傍にあったこの蓼をボントクタデといって会員に教えた。ところが会員がしきりにクスクス笑うので不審に思い、その訳を聴きただしてみたところ、会員の一人が言うには、この辺ではポンツクのことをボントクというのだと答えた。私はははあ成るほどとこれを聴き、初めてボントクの意味が判かり大いに啓発せられたことを悦んだ。すなわちそれは蓼は辛い味のものだと相場が極まっているが、この蓼は一向に辛くないので馬鹿タデすなわちポンツクタデの意で、それでボントクタデだということが初めてこの会のとき明瞭となった訳だ。ただしひとりその実を包む宿存萼には特に辛味があるので、この点は僅かにポンツクを逃れて本当の蓼らしいのが面白い。
しかしこの蓼はその味からいえばポンツクだが、その姿からいえばまことに雅趣掬すべき野蓼で、優に蓼花の秋にふさわしいものである。茎は日に照り赤色を呈して緑葉と相映じ、枝端に垂れ下がる花穂の花は調和よく紅緑相雑わり、それが水辺に穂を垂れている風姿はじつに秋のシンボルであって、他の凡蓼の及ぶところではない。私はこの蓼がこの上もなく好きである。あまり好きなので柄にもなく左の拙吟を試みてみたが、無論落第ものの標本であろう。
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紅緑の花咲く蓼や秋の色
水際に蓼の垂り穂や秋の晴れ
我が姿水に映つして蓼の花
一川の岸に穂を垂る蓼の秋
秋深けて冴え残りけり蓼の花
[#ここ
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