おこのほか灌園の筆で美濃半紙へ着色で描いた小金井桜等の景色画二、三枚をも併せて白井君に進呈しておいたが、それらの画は今どこへ行っているのだろう。
 また小野蘭山《おのらんざん》自筆の掛軸一個も気前よく同君に進呈しておいた。それに蘭山先生得意の七言絶句詩が揮亳《きごう》せられてあったが、今その全文を忘れた。なんでも山漆、鶴虱のことが詠じてあった。そしてこの掛軸は私の郷里土佐佐川町の医家山崎氏の旧蔵品で、私は前にこれを同家から購求したものであった。同時に同家所蔵の若水《じゃくすい》本『本草綱目《ほんぞうこうもく》』もまたこれを買い求め、これは今も私の宅に在る。この山崎家の今の主人は医学博士山崎|正董《まさただ》氏であったが、今は既に故人となった。

  サルオガセ

 地衣類植物(Lichenes)に昔からサルオガセと呼ぶものがあって、書物に出ている。すなわちそれはサルオガセ科(Usneaceae)の Usnea plicata Hoffm[#「Hoffm」は斜体]. var. annulata Muell[#「Muell」は斜体]. である。
 このサルオガセは山地の樹木に着いて生じ、長さは六五センチメートルばかり(二尺一寸五分ばかり)に出入りして無数に分枝し、ふさふさとして垂れ下っており、帯黄白色で直径は太いところで二ミリメートルばかりもあり、その外面が短かい管のような環になってひび割れがしているのが特徴である。その変種名の annulata は環状という意味で、この特状に基づいた名である。ふるくからサルオガセと呼んでいた地衣は主としてこの品を指し、それはこの属中で第一等長大な形状をしていて著しいから、人々の目につきやすい。サルオガセは猿麻※[#「木+裃のつくり」、第3水準1−85−66]《サルオガセ》の意、この麻※[#「木+裃のつくり」、第3水準1−85−66]《オガセ》は績んだ麻を纏い掛けて繰《く》る器械であるが、このサルオガセの場合は麻糸《おいと》の意として用いたものだ。
 しかるに我国近代の学者は Usnea longissima Ach[#「Ach」は斜体]. をもってサルオガセと呼んでいるのは、昔からのことを考え合わすとじつは不徹底である。もちろんこれもサルオガセの一種(私はこれをナガサルオガセと呼んでいる)には相違ないが、しかし昔から書物に出ているサルオガセそのものではない。では近代学者が不案内にも強いて妄りにこれをそうした訳はどうかとたずねてみれば、それは初め先ず明治三年(1870)出版の博物館、天産部、植物類の『博物館列品目録』に「サルヲガセ、松蘿《ショウラ》 Usnea longissima Ach[#「Ach」は斜体].」と出ている。次いで三好学《みよしまなぶ》博士等が植物教科書などを書いたときに、その種名の longissima(非常に長いという意味)に魅せられて、これを無条件にサルオガセとしたので、その後の人々もサルオガセといえば Usnea longissima, Usnea longissima といえばサルオガセであると相場がきまったようになった。これらの人々は日本で前からサルオガセといっている品を正当に掴むことが出来ないでいるのは残念である。
 サルオガセを Usnea plicata Hoffm[#「Hoffm」は斜体]. var. annulata Muell[#「Muell」は斜体]. とした初めは私で、私は、これを大正三年(1914)十二月に東京帝室博物館で発行した『東京帝室博物館天産課日本植物|乾※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]《かんさく》標本目録』で公にしておいた。
 サルオガセの名はこれを松蘿、一名女蘿として源順の『倭名類聚鈔』に出ており、和名をマツノコケともしてある[サルオガセは松蘿でもなければ女蘿でもない、マツノコケは古く深江輔仁の『本草和名』に末都乃古介と出て、これは松蘿を元として製した名であるからこれもサルオガセにはあたっていない。古の松蘿も女蘿もじつはその実物はなんであるのかよくは分らないものである]。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』にはサルオガセの一名をサルノオガセ、ヤマウバノオクズ、ヤマウバノオガセ、サルガセ、キリサルガセ、クモノハナ、キヒゲ、ハナゴケ、キツネノモトユイとしてある。そして「木皮ニ生ズル処ハ一筋ニシテフトシ、末ニ枝多ク分レ下垂シテフサノ如シ、白色ニシテ微緑ヲオブ、フトキ処ヲシゴケバ皮細カニ砕テ離レズ、内ニ強キ心アル故数珠ノ形ノ如シ、故ニ弘法ノ数珠ノ変化ト云、和州芳野高野山野州日光山殊ニ多シ、長サ三五尺ニシテ至テフトシ、雨中ニハ自ラ切テ落」と書いてある。この蘭山の文でみても、サルオガセは上に述べた品であることが自から明かである。
 岩崎灌園の『本草図譜』にサルオガセの図が出ているが、その品は明かに Usnea plicata Hoffm[#「Hoffm」は斜体]. var. annulata Muell[#「Muell」は斜体]. である。図上にその環状の模様が表わしてあるのは、これがその種たることを明示している。

  毒麦

 毒麦すなわちドクムギ! 貴い食料品の麦の仲間に毒麦があることを聞けば恐わいことに思われるが、イヤなにも心配無用、その毒麦は本当の麦の仲間ではなく、また本当の麦にはけっして毒はないからご安心のこと、そしてここに毒麦と銘打って出頭したのはそれはホモノ科(禾本科)のものではあるが、全く別属の品で名は毒麦でも麦とはなんの関係もない。しかし小麦粉を度々食料にする今日ただいまでは、この毒麦には吾不関焉《われかんせずえん》たるを得ない不安心が存する。
 以前我が都民が配給の小麦粉を食って中毒したという風聞が頻々として耳朶《じだ》を打ったことがあった。当時私はこれを新聞で見たとき直ぐにも、ははあ、それは毒麦からの中毒ではなかろうかと直感した。数日を経て東京帝国大学農学部の佐々木喬農学博士も同じくそれは毒麦の中毒ではないかと推測せられた記事が新聞にでていたのを見て、同博士もやはり同じ感じだなと思った。しかるにある菌学者が言うのには、それは多分その小麦粉が湿気を帯びて何か黴が来、それから分泌した毒のためではなかろうかとのことであった。
 ずっと以前、もう三十年[#「三十年」に「ママ」の注記]あまりにもなったろうが、我国の麦畑に諸所で毒麦の繁殖したことがあった。その後もどこかでボツボツは生じているのではなかろうかと思うこともあったが、少しばかり生えていたとて別に人の注意も惹かないので、その後私は全く毒麦のことは忘れていた。しかるに近年それが東京付近の地で少々生えていたことを知った。
 いったいこの毒麦とはどんなものか。先ずこの禾本の学名をたずねると、それは Lolium temulentum L[#「L」は斜体]. であって、その種名の temulentum とはぐでんぐでんに酒に酔うたことである。そして本品は欧州、北アフリカ、西シベリアならびにインドの原産である。一年生の草で独生あるいは叢生の稈《かん》は直立し、単一で分枝せず高さが三、四尺にも達する。線形の緑葉を互生し、葉片下に稈を取り巻く長い葉鞘がある。細長一本ずつの緑色花穂は稈に頂生し、果穂は熟後褐色を呈し、小穂(学術語であって螽花《しゅうか》と称する)は穂軸に互生して二列生をなし、五ないし十一花よりなっている。苞状をなした一空頴は小穂より少しく長く、穀粒は小形で長楕円形を呈し白褐色である。
 この毒麦がよく小麦畑に生えるので、その収穫のさい毒麦の穀粒が一緒に小麦の穀粒にまじることがある。そしてその毒麦の穀粒は刺激性、麻酔性の毒分を有し、それを食うとよく口に譫語を発し、胃に苦しい痙攣がおこり、心臓が衰弱し、睡気を催し、眩暈がしあるいは昏倒し、悪寒が来、嘔気を催しあるいは嘔吐し瞳孔が散大する。そしてこの有毒アルカロイドをテムリン(Temulin)と称する。
 毒麦の俗名には Darnel, Tares, Ivry, Poison rye−grass がある。
 この毒麦の属する Lolium 属[#「属」に「ママ」の注記]には通常なお二つの種があって、早くも他の牧草とともに我国に入って来て今はすでに帰化植物となっている。すなわちその一つは Lolium perenne L[#「L」は斜体]. で俗に Rye−Grass といい、ホソムギの和名があり、その花には芒《のぎ》がない。またその一つは Lolium multiflorum Lam[#「Lam」は斜体].(=Lolium italicum[#「Lolium italicum」は斜体] A. Br.)で俗に Italian Rye−Grass と称え、ネズミムギの和名を有し花に芒がある。この有芒無芒の点で容易にこのホソムギ、ネズミムギの区別がつく。

  馬糞蕈

 馬の糞や腐った藁に生える菌に馬糞蕈すなわちマグソダケというのがあって、マツタケ科のマツタケ亜科に属し Panaeolus fimicola Fries[#「Fries」は斜体](=Coprinarius fimicola[#「Coprinarius fimicola」は斜体] Schroet.)の学名を有している。そして、この種名の fimicola は糞上もしくは肥料上に生じている意味である。最古の字書の『新撰字鏡《しんせんじきょう》』には菌の字の下に宇馬之屎茸と書いてあるところからみれば、この名はなかなか古い称えであることが知られる。
 この菌は直立して高さは二寸ないし五寸ばかりもある。茎は痩せ長くて容易に縦に裂ける。蓋《かさ》は浅い鐘形で径五分ないし一寸ばかり、灰白色で裏面の褶襞《ひだ》は灰褐色である。全体質が脆く、一日で生気を失いなえて倒れる短命な地菌である。
 昭和二十一年九月十一日に来訪した小石川植物園の松崎直枝君から、このマグソダケが食用になり、それがまたすこぶるうまいということをきいて私は大いに興味を感じた。
 この菌がかく美味である以上は、大いにこれを馬糞、腐った藁に生やして食えばよろしい。春から秋まで絶えず発生するというから、随分と長い間賞味することが出来る訳だ。
 これが馬糞へ生えるのはちょうど彼のいわゆるシャンピニオンのハラタケ(田中延次郎命名)一名野原ダケ(拙者命名)すなわち Psalliota campestris Fries[#「Fries」は斜体](=Agaricus campestris[#「Agaricus campestris」は斜体] L.)が連想せられる。このシャンピニオンが培養せられるときには馬糞が使用せられる。それはその生える床に熱を起こさせんがためである。
 一茶の句に「余所|並《なみ》に面並べけり馬糞茸」というのがある。
 今次ぎに私のまずい拙吟を列べてみる。

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食う時に名をば忘れよマグソダケ
その名をば忘れて食へよマグソダケ
見てみれば毒ありそうなマグソダケ
恐《こ》は/″\と食べて見る皿のマグソダケ
食てみれば成るほどうまいマグソダケ
マグソダケ食って皆んなに冷かされ
家内中誰も嫌だとマグソダケ
嫌なればおれ一人食うマグソダケ
勇敢に食っては見たがマグソダケ
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 馬勃(オニフスベ)にもウマノクソタケの名があるが、上のマグソダケとは無論別である。
 大正十四年八月に、飛騨の高山の町で同町の二木長右衛門氏に聞いた話では、「馬糞ナドニ生エル馬糞菌ヲ喜ンデ食フコトガアル」とのことであった。また「何レノ菌デモ一度煮出シ置キ其後ニ調食セバ無毒トナリ食フ事ガ出来ル」とのことも聞いた。この高山町では漬物の季節に当たって、近在から町へ売りに来る種々な菌を漬物と一緒にそれへ漬け込むのである。同町では定まった漬物日があって年中行事の一つとなっており、その日に各家で漬物をする。その漬物桶が家によってはとても結構なのが用意せられているとのことである。これは他国では見られぬ珍らしい
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