柄でその肉質壁に坐っているから、その着点を花托とみてもよかろう。
従来日本で栽植せられているイチジクは、葉の分裂の少ない型の種でこれに二つの品種があり、すなわちその一は果皮紫黒色、肉白き黒イチジク、その二は果皮白色で微紫色を帯び、肉淡紅の白イチジクである。その後明治になって渡来したものは葉が深い掌状裂をなした品であるが、今日ではなおその果の優秀な改良種も来ていることと思う。
イチジクと媒介昆虫との相関関係、すなわちカプリフィケーションは複雑を極めているが、それは野生種に起こる現象で、普通に栽植してある食用果のイチジクにはこの事実は見られないように思う。
イチョウの精虫
夢想だもしなかったイチョウ、すなわち公孫樹、鴨脚《オウキャク》、白果樹、銀杏である Ginkgo biloba L[#「L」は斜体]. に精子すなわち成虫(Spermatozoid)があるとの日本人の日本での発見は青天の霹靂で、天下の学者をしてアット驚倒せしめた学界の一大珍事であった。従来平凡に松柏科中に伍していたイチョウがたちまち一躍してそこに独立のイチョウ科が出来るやら、イチョウ門が出来るやら、イヤハヤ大いに世界を騒がせたもんだ。そしてその精虫を初めて発見した人は、東京大学理科大学植物学教室に勤めていた、一画工の平瀬作五郎《ひらせさくごろう》氏(その肖像が昭和三年九月発行の『植物研究雑誌』第四巻第六号に出ている。同氏の顔を知りたい方はそれを看るべしだ)であって、その発見はじつに明治二十九年(1896)の九月であった。
こんな重大な世界的の発見をしたのだから、普通なら無論平瀬氏は易々と博士号ももらえる資格があるといってもよいのであったが、世事魔多く底には底であって、不幸にもその栄冠を贏《か》ち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲となって江州は琵琶湖畔彦根町に建てられてある彦根中学校の教師として遠く左遷せられる憂目をみたのは、憐れというも愚かな話であった。けれども赫々たるその功績は没すべくもなく、公刊せられた『大学紀要』上におけるその論文は燦然《さんぜん》としていつまでも光彩を放っている。宜《む》べなる哉、後ち明治四十五年(1912)に帝国学士院から恩賜賞ならびに賞金を授与せられる光栄を担った。
このイチョウの実の中にある精虫を発見したその材料の樹、すなわち眼を傷つけてまでもその実を自分で採集したその樹は、大学付属の小石川植物園内に高く聳立するイチョウの大木であった。その樹はこの由緒ある記念樹として今もなお活きて繁茂し、初冬にはその葉色黄変してすこぶる壮観を呈するのである。
さてこの精虫出生の出来事を譬えれば、これは許嫁の幼い男女二人があって、早くもその男が後ちにお嫁サンになるべき運命を持ったその娘の家に引き取られて養われ、後ちにこの両人が年頃となるに及んで初めて結婚するようなもんだ。
イチョウは雌雄別株の植物で雄木と雌木とがある。この二つの樹がたまたま相接して並んでいることもあるが、たいていは雄木、雌木が相当互に相隔っているものが多い。そして春に新葉の少し出た時分に枝に雄花が咲いて花粉を出すのであって、この花粉は風に吹き送られて遠近に飛散する。けれども極く玄微な花粉ゆえその飛んでいることはとても肉眼では見得べきもないが、そこには飛び来るこの花粉を僥倖に待ち受けているものがある。それは雌木の枝の端に着いている小さい雌花すなわち裸の卵子である。この卵子にはその頂点にじつに針の先きで突いたよりもなお細微な一つの孔があって、その飛び来る花粉を具合よくその孔へキャッチするのである。じつに不思議なのは、遠くから極めて疎らに飛んで来る花粉が、よくもマア卵子頂のこの小さい孔を索《もと》めて飛びこんで来るもんだ。なんだか卵子に引力でもあって、その花粉を引きよせるのではないかとのように思わせられてならない。花粉が濛々たる煙のようにまた漠々たる雲のように飛んで来るのならイザ知らぬこと、一粒一粒極く稀薄に飛んで来て、よくも狙い誤またずにちょうどその小さい孔に飛びこむとは、じつに造化自然の妙に驚歎せざるを得ないのである。
さて春に、そこすなわち娘の家に飛びこんだこの花粉すなわち幼い男子はこの娘の家に引き取られて、そこに幾月もの間に段々と生育するのだが、それを養い育てるその娘の家すなわち卵子も、日を経るままに次第にその大きさを増しつつ時日を重ねるのである。そしてそうこうしている内に卵子もズット大きな実となり、初めは緑色であるのが秋風に誘われて、ようやく黄色に色着いて来る。サアこの時だ! その実の頂に近い内部に液の溜ったところが出来ていて、その液の中へ娘の家で成年に達した男の花粉嚢から精虫が二疋ずつ躍り出て来て、その精虫の体に具えている纎毛を動かしてその液中を泳ぎ回るのである。そして間もなく、これも自分の家で成年に達した娘の雌精器に触接し、握手結婚して一緒になり、ここにめでたく生育の基礎を建てるのである。すなわち許嫁の男子(雄)と女子(雌)とが初めて交会し、四海波静かにめでたく三三九度の御盃をすませる。
それは春から夏を過ぎて秋となり、その間長い月日の間何んの滞りもなく生長を続けてついに成長の期に達し、待たれた本望を遂げて千秋楽とはなったのである。そしてなお樹上にはその実が沢山に残っているから、そこでもここでも同じく華燭の盛典が挙げられめでたいことこの上もなく、許嫁の御夫婦万歳である。そのうちに右の実がいよいよ軟く黄熟し烈臭を帯びて地に落ち、葉もまた鮮やかな黄金色を呈して早くも結婚の終了を告げ欣々然として潔ぎよく散落し、間もなくその年は暮れるのである。そしてこの結婚をすませた実が地に落ちれば、来年はそこに萌出して新苗を作り子孫が繁殖するのである。
イチョウの黄葉は敢てほかの樹には望まれない美観なもので、遠くから眺めればその家、その寺、その村の目標ともなる。もしこの数千本を山に作って一山をイチョウ林にしたらば確かに壮観を呈するであろう。私に○があれば是非実行して世人をアット言わせてみたいもんだが、財布が小さくて手も足も出ないのは残念至極だ。
この木には特にいわゆるイチョウの乳が下がるが、これはこの樹に限った有名な現象である。つまりこれは気根の一種であろう。往々それが地に届きその先が地中に入ったものもある。
この今見るイチョウ樹は昔、日本へは中国から渡り来ったもので、もとより初めから我国に在ったのではない。元来中国の原産であることは疑う余地はないが、今は同国でもその野生は見付からぬとのことである。
茶樹の花序
自分で大発見などとほざくのは、世間さまを憚らず、分際を弁えぬ大たわけ、僣越至極、沙汰の限りだと叱られるのは必定であるが、今心臓強くこれをがなるのは、そこに「事実」という犯し難い真理があるからである。
私は過去およそ四十年ほど以前から茶の樹についての注意を怠らず、殊に花時にはいつも興深くこれを眺めた。以前東京帝国大学理学部植物学教室の学生で名は今忘れたが相州鎌倉から来ていた方があって、あるとき幾人かで鎌倉の同氏の宅を訪ねたことがあった。そのとき私は偶然同家の裏庭へ行ってみたら、そこに多くの茶の樹があって花が咲いていた。ふと見るとその花の花序すなわち Inflorescence に見慣れないものを見つけた。それは Cyme すなわち聚繖《しゅうさん》花序であった。これすなわち茶の花の花序が明かに聚繖花序であるという大切な発見である。
茶の花は十月、十一月に咲くのだが、そのとき茶の樹に眼を注いでみると往々正しく整形せられた聚繖花序に逢着することはなにも珍らしいことではないが、なぜ世の多くの学者が今までこれに気がつかずに見逃がしていたかじつに不思議千万である。日本と西洋とを通じて茶の花の図に一つもそれが描写せられておらず、また茶の記述文にも一向にその事実が書いてない。茶のすべての花は単に葉腋から出るとしてある一本もしくは二本の花梗があって、その花梗末に一輪の花が着いているだけのことになっていて、それがみな単梗花と見なされているのである。しかし今それを精しくかつ正しくいえば、この花梗はじつは今年出た葉腋にあってその頂に一芽を有する今年生の極く短い短枝(学術語)の側面にある苞腋(この苞は逸早く謝し去り花の時にはない)から発出しているのである。
ところが茶の花はその不発育に原因して茶樹上単梗花になっているものが無数にあるが、しかし中にまじって花梗に枝をうち、はっきりした聚繖花序をなしているものに出逢うことはそう珍らしいことではない。誰でも少し注意すれば早速にこれを見出し得ること請け合いである。
この花梗に分枝していないものを見ては誰でもそれが聚繖花序であることには気がつくまいが、花梗をよくよく注意して検してみると、梗の途中に一つの節がある。極く嫩い初期のときにはその節に早落性の苞があるから、推考することに鋭敏な人ならば、その花梗にさらに枝梗が出るはずだと想像することは敢て難事でもあるまいが、今日までそう考えた人は誰もなかったのであろう。
茶にこの聚繖花序の現われるのはまことにこの上もない貴重なかつ大切な事実で、これはこの茶の属、すなわち Thea 属[#「属」に「ママ」の注記]をして近縁のツバキ属すなわち Camellia 属[#「属」に「ママ」の注記]と識別する主要な標徴であることは確かに銘記に値する。すなわち常に無梗の単生花を出すツバキ属、そして時々聚繖花を出すチャ属とは自然にその間に一目瞭然たる不可侵の境界線を画するものである。要するにこの両属の主要な区分点はこの点に尽きている。そしてこの Thea と Camellia との二属は由来離合常なく、あるいは親和しあるいは反目し、学者がこもごも各自の意見を固守していて、ある学者は Thea, Camellia 二属に独立を与え、ある学者は Thea 属[#「属」に「ママ」の注記]を Camellia 属[#「属」に「ママ」の注記]に嫁入らせ、またある学者は Camellia 属[#「属」に「ママ」の注記]を Thea 属[#「属」に「ママ」の注記]の支配下においていたが、今私のこの聚繖花序発見で初めて確定的に世界の学者にその依るところを教えたものであるから、これを大発見と誇唱してもなんの僣越にもなりはしない。気焔万丈、天狗の鼻を高くするゆえんである。呵々。
茶樹に聚繖花序の出現することは私の発言するまでは誰も知らなかった。かつて私はこの事実を中井猛之進《なかいたけのしん》博士に話したのだが、同博士もこれは初耳であった。
二十四歳のシーボルト画像
理学博士|白井光太郎《しらいみつたろう》君の著『日本博物学年表』の口絵に出ているシーボルトの肖像画は、もと私の所有であったが、今からずっと以前明治三十五、六年の時分でもあったろうか、私は白井君のこの如きものの嗜好癖を思い遣ってこれを同君に進呈した。この肖像は彩色を施した全身画で、白井君の記しているように二十四歳で文政九年(1826)東都に来ったときの写生肖像絵で、これは『本草図譜』の著者、灌園岩崎常正《かんえんいわさきつねまさ》の描いたものである。そして私は当時これを本郷区東京大学近くの群庶軒書店から購求したもので、同書店ではこれを岩崎家の遺族から買い入れたものであった。
[#「シーボルト画像 岩崎常正(灌園)筆(着色)、この肖像画は元岩崎家遺族から本郷の一書肆に出たもので、牧野富太郎が買い取り白井光太郎君に譲渡したものであるが、今は上野の国立図書館に蔵せられている」のキャプション付きの図(fig46820_08.png)入る]
白井君はこの肖像の上半身だけを同氏著書、すなわち『増訂日本博物学年表』(明治四十一年発行)に掲げているが、それを私から得た由来はかつて一度も書いたことなく、またいささか謝意を表したこともなかったので、今ここにそれを私から白井氏へ渡った顛末を叙して、その肖像画の由来を明かにしておく。
な
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