花穂ニ小柄ヲ具ヘ柄上二乃至四小葉アリ小苞ハ緑色卵円形ニシテ外面絨毛ヲ密布ス子房ハ卵形ニシテ外面絨毛ヲ帯ビ先端ニ短柱ヲ具ヘ柱頭長ク二分ス花穂ノ全長四五分許ニシテ其本ニ倒卵形乃至匙形ノ小葉ヲ対生スルノ状十文字鎗ノ穂ニ似タリ葉ハ細長披針形ニシテ先端尖リ周辺細鋸歯アリ面ハ青ク背ハ淡ニシテ白粉ヲ塗抹セルガ如キ趣アリ長三四寸許新枝ハ浮毛ヲ帯ブレドモ旧枝ニハ毛ナシ予先年此種ヲ大隅佐多付近ニテ採リ昨年四月常州筑波山下ニテモ採レリ筑波山ニアリシ樹ハ直径壱尺余ニシテ直聳シ喬木ヲ成セリ此種ノ形状ハ好ク Salix eriocarpa Fr[#「Fr」は斜体]. et Sav[#「et Sav」は斜体]. ニ符号ス此ニ相違ナシト考フ昨年学友某亦筑波山下ニテ之ヲ採集シ此たちしだれやなぎ[#「たちしだれやなぎ」に傍線]ノ新称ヲ命セラレタルヤニ聞キシガたちしだれ[#「たちしだれ」に傍線]ナル名ハ意義ニ於テモ少シク通ゼザルガ如キ嫌ナキニ非ザレバ予ハ寧ロ蛇柳ヲ以テ此種ノ普通名トナサント欲スルナリ
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である。
『紀伊続風土紀《きいぞくふどき》』の「高野山之部」に出ている蛇柳の記は次の如くである。

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  ※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳[牧野いう、※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]は蛇と同字でヘビである]
 息処石の南大河南岸に洲あり古柳蟠低して異風奇態あり夫木集に知家朝臣の歌に咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにしてといふ此歌にては※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳のことあらわれず扶桑名勝詩集に宕快法印の作とて高野山十二景の中に雪中※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳の題のみあり本州旧跡志に※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳大塔の東廿八町にあり昔し此所に大※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]ありて妖をなせり時に弘法持呪しければ※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]他所にうつりて其跡に柳生ぜり因て※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳といふとあり又此柳偃低大※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]に似たれば※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳といひ又大師の加持力にて※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]を変じて柳とならしむといふ説あれどもいぶかし近世雲石堂十八景の中に春日※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]柳の詩あり略す又俗諺に昔し此所に大※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]ありて人を害す大師これを悪み給ひて竹の箒もて大滝へ駈逐し玉ふゆへ大※[#「虫+也」、第3水準1−91−51]の怨念竹の箒に残れりそがゆへに当山の竹の箒を禁ず又駈逐の時後世若此山にて竹の箒を用ば其時に来り棲めと誓約し玉ふゆへとも云ふ並にとりがたし
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『紀伊国名所図会《きいのくにめいしょずえ》』三編、六之巻(天保九年発行)高野山の部に、この蛇柳の図が出ている。「渓の畔《ほとり》にありいにしへは大蛇ありて妖《よう》をなす時に弘法(大師)持咒《じじゅう》したまいければ大蛇忽ち他所にうつりて跡に柳生ぜり因て此名ありといふ、一説に遠く是を望めば蜿蜒※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]娜《えんえんじょうだ》として百蛇の逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《いい》するがごとし因て名づくといふ猶尋ぬべし

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夫木抄 正嘉二年毎日一首中
   咲花に錦おりかく高野山柳の糸をたてぬきにして
                  民部卿知家
   吹たびに水を手向る柳かな     米冠
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と書いてある。
 また同書蛇柳の図の上方に、「我目《わがめ》にも柳と見へて涼しさよ」麦林 の俳句と、「ともすればたけなる髪をふりみだし人の気をのむ風の蛇柳」栗陰亭 との狂歌が記してある。
 昭和三年(1928)三月発行の『植物研究雑誌』第五巻第三号に「じゃやなぎノ名ノ起リ」と題し、久内清孝《ひさうちきよたか》君がこのヤナギについて「此世からさへ嫌はれて深く心を奥の院渡らぬ先に渡られぬみめうの橋の危うさも後世のみせしめ蛇柳や」(巣林子《そうりんし》『女人堂高野山心中万年草《にょにんどうこうやさんしんじゅうまんねんぐさ》』)の書き出しで、いろいろと書いていられる。それへこのヤナギ研究に縁ある白井光太郎博士自筆の蛇柳原稿図も添えてある。
 以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部のある僧に向かってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を回らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企てたことが発覚して捕えられ、後来の見せしめのためにその僧を生埋にしたところがあの場所で、そこへあの通り柳を植え、そして右のような事情ゆえその罪悪を示すためその柳の名も蛇柳と名づけたようだ」と語られた。
 右の有名なヤナギも今は既に枯死して、ただその名を後世に遺すのみとなった。上のような由来をもったヤナギであったのだから、その後継者として一株の柳樹を植えその跡を標したらどうだろう。

  無花果の果

 無花果《ムカカ》はイチジクである。これはもとより我が日本の産ではなく、寛永年中に初めて西南洋からの苗木を得て長崎に植えたといわれている。そして古人がこれを無花果と名づけたのは、その果はあるが外観いっこうに花らしいものが見えぬので、それで実際に花のないものだと思って無花果と書いたので、この無花果の字面は明《みん》の汪頴《おうえい》の『食物本草《しょくもつほんぞう》』に初めて出ている。そしてこの果はじつは擬果すなわち偽果であって、本当の果実でない事実は素人には分るまいが学者にはよく分っている。
 有名な学者の貝原益軒《かいばらえきけん》に従えば、イチジクとは元来イヌビワすなわちイタブ Ficus erecta Thunb[#「Thunb」は斜体]. の名であるが、それが移って無花果の名になったといわれる。すなわち同氏の『大和本草《やまとほんぞう》』にはイヌビワの名を明かにイチジクと書き、その条下に「無花果ハ近世ワタル、イチヂク[牧野いう、イヌビワを指す]ニ似タル故ニ其名ヲカリテ無花果ヲモイチヂクト云」、また無花果の条下に「日本ニモトヨリイチヂクト云物[牧野いう、イヌビワを指す]別ニアリ………イチヂクニ似タル故ニ無花果ヲモイチヂクト云」と断言している。またイチジクはイチジュクすなわち俗に云う一熟だと寺島良安《てらじまりょうあん》の『倭漢三才図会《わかんさんさいずえ》』に出ているが、これは中国の書物に「一月[#(ニシテ)]而熟[#(ス)]味[#(ヒ)]亦[#(タ)]如[#(シ)][#レ]柿[#(ノ)]」とある文に基づいてそういったものであるが、これはイチジクの語原となすには足りない。また無花果の一名を映日果というから、あるいはツイスルとこの ying jih kuo がイチジクの語原となりはしないかという説もある。しかしながらこのイチジクという意味は全く不明である。
 イチジクの別名として九州地方にはトウガキ(唐柿)の方言がある。これはその形が円くて味が甘いからそう呼んだものだ。またウドンゲという方言があるが、これは無花果の一名を優曇鉢と称えるからであって、それはめったに花の咲かないことを意味した名だ。
 無花果は西アジア、ならびに地中海地方の原産で、遠い大昔からその食用果のために栽植せられており、中国へも無論その辺の地方からはいりこんだものであろう。クワ科の落葉樹でその学名を Ficus Carica L[#「L」は斜体]. といい、俗にその果を Fig と呼ばれる。種名の Carica は小アジアなる Caria からの名である。
 無花果、果たして花はないか。否な花がないのではない。ただ外方より見て見ることが出来ないだけである。実際はその果の内部に小花が填充しているのである。すなわちその花序は閉頭総状花である。言葉を換えていってみれば、これは変形せる一つの総状花穂(raceme)である。そしてその嚢体が裏返って外が内になり、すなわち外にあって咲くべき花がみなそのために内に潜んで天日を仰がずに暗室で咲いているのである。
 今ここにそのしかるゆえんを説明するために、私は次の図を創意してみた。すなわちこれでみればその状が一目瞭然であろう。誰でもなるほどと合点が行くであろう。すなわちその花穂の中軸が段々と膨大して頂の方から窪みはじめて陥ちこみ、漸次にその度が増してついにはこれを包んでしまい、花はみなその中へ閉じこめられるのである。そして今想像してみると、その常態の花穂から始まってついに閉在花穂成立までの過程は、どれほど悠久な地質的年代を経過し来ったものかはとても考え及ぶところではない。もしそこにその原始型の化石でもあれば、あるいはおよその年代も多少推測が出来るかも知れない。
[#無花果の閉在花穂成立までの歴史的推移を示す図(fig46820_07.png)入る]
 この閉頭果の本には三片の小形苞があり、上頭には相接して多数の小形苞が重って、その口を塞いでいるのが見られる。果体すなわち Fig の内部、すなわちその腹中には、前に書いたように小さい花が無数にあって一杯詰まっている。この花はあるいは長くあるいは短い小梗を具えている有柄花であって、その梗頂に三片の萼と一子房とがある。これは雌花の場合であるが、今我国に栽えてある初渡来以来のイチジクは、みなこのように果中にただ雌花のみを具えていて敢て雄花を見ない。イチジクの種類によってはその入り口の方に雄花があって、他はみな雌花のものもあるが、日本へはまだそんなのは来ていない。雌花に結ぶ小さい核果(Drupe)には各一つの堅い粒《ツブ》があるが、それはクワの実にあると同じようないわゆる核であって種子ではなく、種子にはいっこうに胚が育っていない。ゆえに種子はみな粃《シイナ》であるからこれを播いても生えて来ない。このように種子が孕まないのは雄花がない結果であろう。前記の通りこの各の花にはみな小梗があって、その梗頂がすなわち花托(receptacle)になっていることを特によく心に留めていなければならない。大抵の学者でもこれを看過しているのはどうしたものだ。
 ところで世界の多くの学者でも、また日本の学者でも、いつも誤っている事実は、この閉頭果すなわちイチジクの実の外壁の部、すなわち中部の花もしくは果実を包んでいる内嚢壁の部を、花托(receptacle)もしくは総花托(common receptacle)だとしていることである。これはじつに思わざるのはなはだしきもので、この部は花托でも何んでもなく、これはそれを正直にいえば単に変形せる花軸である。その花托は内部の小花にこそあれ(上に書いたように)他の場所にある理屈がない。小花にも花托があり、さらにその小梗下の肉壁にも花托があるということになると、畢竟二重に花托が存在している結論となる。そうでないのか、考えてみればすぐ判ることだ。元来花托とは花梗《かこう》の頂端で萼、花弁、雄|蕊《ずい》、雌蕊の出発しているところではないのか。イチジクの花托についてこれまでの書き方は不徹底至極で、天下には沢山な学者がいるのにかかわらず、誰一人正論を唱えてこれを説破した者がないとは、なんとまあ不思議なことではないか。
 イチジクは前述の通りクワ科に属する。昔の昔のその昔、大昔のまだ昔、イチジクの果が今日のようにならん前の原始的の花穂は、多分クワの花の花穂のようなものであったろうことが推想し得られる。それがあるテンデンシーをとって進み、幾多地質時代の幾変遷をへつつ、漸次に今日のような形態に到達したのであろう。同じクワ科のドルステニア(Dorstenia)の花は普通の花穂とイチジクとの中間を辿っているとみてよかろう。しかしこの植物の小花は無
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