啓成社で発行した上田万年《うえだかずとし》博士ほか四氏共編の『大字典《だいじてん》』には「【※[#「くさかんむり/開」、16−13]】カイ国字」と出で、また「万葉集訓義弁証に曰く新撰字鏡に※[#「くさかんむり/開」、17−3]音開、山女也、阿介比とあり、蔔子(あけび)の実の熟してあけたる形、女陰にいとよく似たり。故に従[#レ]艸従[#レ]開て製れる古人の会意の字也、開は女陰の名にて和名鈔に見えたり」と出ている。しかし『和名鈔《わみょうしょう》』すなわち『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』には女陰は玉門《ツヒ》としてあるが、ただし玉茎の条下の※[#「門<牛」、17−6]の字の注に、「以開字為女陰」と書いている。
私の郷里土佐の国高岡郡佐川町では女陰をオカイと称するが、これは御カイであろう。すなわちカイは上古の語の遺っているものと思う。
とにかくアケビとはその熟した実が口を開けた姿を形容したものである。ゆえにこれが縦に割れて口を開けていることを根拠としてアケビの名が生じたと考えられる。それでアケビの語原はこの縦に開口しているのをアケビと形容して、それが語原だとしている人に白井光太郎《しらいみつたろう》博士もいる。また人によってはアケビは開《ア》ケ肉《ミ》から来たものとし、また欠《アクビ》から来たものともしている。これは考えようではどちらでもその意味は通ずるが、アケツビの方がおかしみがあって面白く、そして昔に早くも※[#「くさかんむり/開」、17−13]とも山女とも書いてあるので、まずそれに賛成しておいた方がよいのであろう。が、この語原は若い女の前ではその説明がむつかしい。しかし今日ではシャーシャー然たる勇敢な女が多いから、かえって興味をもって迎え聴くのかも知れない。
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旧拙吟
女客あけびの前で横を向き
なるほどゝ眺め入つたるあけび哉
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元来アケビは実の名で、これは上に書いたように『新撰字鏡』に出ている。またその蔓の名はアケビカヅラであって、これは古く深江輔仁《ふかえのすけひと》の『本草和名《ほんぞうわみょう》』、源順《みなもとのしたごう》の『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』に出ている。
日本にはアケビが二つある。植物界では一つをアケビ、一つをミツバアケビといって分けてあるが、アケビはじつのところこの両方の総名である。
かのアケビのバスケットはミツバアケビの株元から延び出て地面へ這った長い蔓を採ってつくられる。普通のアケビにはこの蔓が出ない。
ミツバアケビの実の皮は鮮紫色ですこぶる美しいが、普通のアケビの実の皮はそれほど美しくはない。熟したアケビの実の皮は厚ぼったいものである。中の肉身を採った残りの皮を油でイタメ味を付けて食用にすることがあるが、なかなか風雅なものである。
[#「アケビ(Akebia quinata Decne[#「Decne」は斜体].)の果実」のキャプション付きの図(fig46820_05.png)入る]
アカザとシロザ
世間の人々、いや学者でさえもアカザとシロザとを区別せずに一つに混同してアカザと呼んでいるが、これはその両方を区別していうのが本当で正しい。しかし元来この二つは共に一つの種すなわち species の内のものであるから両方がよく似ている。シロザが正種で学名を Chenopodium album L[#「L」は斜体]. といい、アカザがその変種で Chenopodium album L[#「L」は斜体]. var. centrorubrum Makino[#「Makino」は斜体] といわれる。このシロザは原野いたるところに野生しているが、アカザは通常圃中に見られ、あまり野生とはなっていないのが不思議だ。これは昔中国から渡り来ったもので中国の名は藜《レイ》である。また紅心|灰※[#「くさかんむり/櫂のつくり」、第3水準1−91−33]《カイテキ》、鶴頂草、臙脂菜《エンジサイ》の別名もある。
アカザの葉心は鮮紅色の粉粒を布きすこぶる美麗である。そしてその苗が群集して一処にたくさん生え嫩《わか》き梢《すえ》を揃えている場合は各株緑葉の中心中心が赤く、紅緑相雑わって映帯し圃中に美観を呈している。
茎はその育ちによって大小があるが、それが太くて真直ぐに成長したものは杖となる。中国の書物にも「老フル時ハ則チ茎ハ杖ト為スベシ」と書いてある。すなわちこれがいわゆる藜杖《れいじょう》でアカザの杖をついておれば長生きをするといわれる。
アカザはまた一つにアカアカザともオオアカザとも江戸アカザとも、またチョウセンアカザとも称する。そしてアカザの語原は判然とはよく分らないが、そのアカは無論赤だが、ザはどういう意味なのか。書物に赤麻《アカアサ》の約と出ているが、この想像説には信を措き難い。貝原益軒《かいばらえきけん》の『日本釈名《にほんしゃくみょう》』には「藜《アカザ》、あかは赤なり、さはなと通ず赤菜なり」と書いてあるのも怪しい。
シロザは一つにシロアカザともアオアカザともまたギンザとも称える。その漢名は灰※[#「くさかんむり/櫂のつくり」、第3水準1−91−33]《カイテキ》である。葉心は白色あるいは微紅を帯びた白色の粉粒をその嫩葉に※[#「米+參」、第3水準1−89−88]布《さんぷ》している。
アカザもシロザも共にその葉が軟くて食用になる佳蔬であるから、その嫩葉を摘むことの出来る限り、大いにこれを利用して食料の足しにすればよろしい。
キツネノヘダマ
狐ノ屁玉《ヘダマ》、妙な名である。また天狗《テング》ノ屁玉《ヘダマ》という。これは一つの菌類であって、しかも屁のような悪臭は全然なく、それのみならずそれが食用になるとは聞き捨てならぬキノコ(木の子)、いやジノコ(地の子)であって、常に忽然として地面の上に白く丸く出現する怪物である。
五、六月の侯、竹藪、樹林下あるいは芝地のようなところに生えて吾人に見参し、形円くあるいは多少平円でその大きなものは宛として人の頭ほどになる。初めは小さいが次第に膨らんできて意外に大きくなる。最初は色が白く肉質で中が実しており、脆くて豆腐を切るようだが、後ちには漸次に色が変わり遂に褐色に移り行って軽虚となり、中から煙が吹き出て気中に散漫するようになるが、この煙はすなわちその胞子であるから、今これを胞子煙と名づけてもまんざらではあるまい。今から一〇九〇年も前に出来た深江輔仁《ふかえのすけひと》の『本草和名《ほんぞうわみょう》』に「和名、於爾布須倍」すなわちオニフスベと出ているが、しかもその書にはなにもその意味は書いてない。しかしこれは誰にでも鬼を燻べる意味だと取れるであろうことは、もっとものように感ぜられるが、ただし私の考えではこのフスベは贅すなわち瘤のことであろうと思う。源順《みなもとのしたごう》の『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』瘡類中の贅を布須倍(フスベ)としてある。そこでオニフスベは鬼の瘤の意であると推考せられ得る。瘤々しくずっしりと太った体の鬼のことだから、すばらしく大きな瘤が膨れ出てもよいのだ。そして鬼を燻べるということだと解する人があったら、その人の考えは浅薄な想像の説であるように私には感ぜられる。
このオニフスベは嫩いとき食用になる。今から二八二年前の正徳五年(1715)に発行の『倭漢三才図会《わかんさんさいずえ》』に「薄皮アリテ灰白色肉白ク頗ル麦蕈《ショウロ》ニ似タリ煮テ食ウニ味淡甘ナリ」と書かれて、この時代既にこんな菌を食することを知っていたのは面白い事実である。この異菌の食われることは西洋での姉妹種 Lasiosphaera Fenzlii Keichardt[#「Keichardt」は斜体] と同様である。それが無論無毒であって食ってもいっこうに差し支えないことが先年理学士石川光春君の試食によって証明せられ、同君は当時これをバターで※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]めて賞味したことを親しく私に話された。
オニフスベは前にも書いたように最も古くから知られた名である。今|小野蘭山《おのらんざん》の『本草綱目啓蒙《ほんぞうこうもくけいもう》』によれば、次のようにたくさんの名が列挙せられてある。
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オニフスベ(古名)○ヤブダマ○ヤブタマゴ○イシワタ○イシノワタ(予州)○ウマノクソダケ○ウマノホコリダケ○ホコリダチ(『大和本草』)○ホコリダケ○ケムダシ○ケムリタケ○ミヽツブレ○ミヽツブシ(讃州)○ツンボダケ○キツネノハイブクロ(若州)○メツブシ○キツネノチャブクロ(和州)○チトメ○キツネノヒキチャ(勢州)○キツネビ(南部)○キツネノハイダハラ(越前)○カザブクロ(奥州)○ホウホウダケ(備前)○カハソノヘ(江州)○カゼノコ(江州)○ヂホコリ(佐州)(以上)、ほかにケムリタケ、ヤマダマ、キツネノヘダマ、テングノヘダマ、ボウレイシがある。
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なおこの他に右に漏れた方言がいずれかの国にあろうと思う。もしかあったら何卒御知らせを願いたい。
オニフスベの漢名は馬勃《バボツ》である。よく牛溲《ギュウソウ》、馬勃、敗鼓の皮といわれ、こんなものでも薬になるかと評せられたものだ。これはまだよい方だが、中国では病人の衣、敗れ傘の骨、首縊りの縄、死人の寝床、厠のチウ木、小便|桶《タゴ》の古板、頭の雲脂《フケ》、耳糞、歯屎《ハクソ》、唾液、人糞、小便、月経、陰毛、精液なども薬になると書かれているが、それでもさすが夢は薬になるとは書いてない。
オニフスベはキツネノチャブクロ科で、その学名は今日では Lasiosphaera nipponica Kobayashi[#「Kobayashi」は斜体] となっているが、もとの学名は Calvatia nipponica[#「Calvatia nipponica」は斜体] Kawamura であって、これを日本の特産菌と認め初めてその新学名を作り発表したのは川村清一《かわむらせいいち》博士であった。
[#「キツネノヘダマすなわちオニフスベLasiosphaera nipponica Kobayashi[#「Kobayashi」は斜体](=Calvatia nipponica[#「Calvatia nipponica」は斜体] Kawamura)」のキャプション付きの図(fig46820_06.png)入る]
紀州高野山の蛇柳
紀州の国は名だたる高野山の寺の境内地に、昔から蛇柳《ジャヤナギ》と呼ばれている数株のヤナギの木があって、近い頃まで生存し有名なものであったが、惜しいことには今枯れたとのことを聞いた。その幹は横斜屈曲して枝椏を分ち葉を着け繁っている。先年私はこの高野山に登って親しくこれを見かつ枝を採って標品に作ったことがあった。
理学博士白井光太郎君はかつて我国のヤナギ類について研究したことがあった。その時分高野にこの柳を採集して検討し、その名を該柳にちなんでそのままジャヤナギと定められたので、爾後この名でこの種《スペシーズ》のヤナギを呼ぶことになっている。その学名は Salix eriocarpa Franch[#「Franch」は斜体]. et Sav[#「et Sav」は斜体]. である。
右の蛇柳について同博士(当時は理学士)は明治二十九年(1896)六月発行『植物学雑誌』第十巻第百十二号に左の通り書かれている。すなわち、
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高野山ノ蛇柳
蛇柳ハ高野山上大橋ヨリ奥ノ院ニ至ル右側ノ路傍ヲ去ル十間許ノ処ニアリ高野山独案内ニ「蛇柳の事」「此柳|偃低《えんてい》して蛇の臥せるに似たり依之名くる与猶子細ありと云ふ尋ぬべし云々」トアル者是ナリ廿八年[牧野いう、明治]八月十三日此処ヲ過ギリ此柳ヲ採集セルトキモ枝葉ノミニテ花部ヲ欠キシヲ以テ帰京後同処小林区署山本左一郎氏ニ依頼シ本年五月其花ヲ得タリ花ハ皆雌花ナリ之ヲ検スルニ
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