由里(ユリ)、また源順《みなもとのしたごう》の『倭名類聚鈔《わみょうるいじゅしょう》』にあるように同じく百合を和名由里(ユリ)としているのは共に間違っているといっても誰も異存はないはずだ。
 百合と称するものはユリ属すなわち Lilium 属[#「属」に「ママ」の注記]一|種《スペシーズ》の特名であって汎称ではない。この種は中国の山野に生じていて茎は直立し、葉は他に比べてひろく、花は白色で側に向ってひらいている。今ここに呉其濬《ごきしゅん》の『植物名実図考《しょくぶつめいじつずこう》』にある図を転載してその形状を示そう。その生根は一度も日本へ来なく、私等はまだこれの実物を見たことがない。しかしもしこれに和名を下すならば、私はそれをシナシロユリ(支那白ユリ)といいたい。もっと典雅な名にしたければ白雪ユリといっても悪くはあるまい。すなわち百合はこのシナユリ一名白雪ユリの新和名に対する中国名で Lilium sp.(種名未詳)である。繰り返していうが、こんなわけであるから「百合」というのは前記の通りユリの総名、すなわち The general name for all lilies ではない。
 従来日本の学者達は百合を邦産のササユリにあてているが、それは無論誤りであって、ササユリはけっして百合そのものではなく、元来このササユリは中国には産しないから当然中国の名のあるはずはないではないか。
 このササユリは関西に多いユリで、関東地方ではいっこうに見ない。一つにサユリともヤマユリ(Lilium auratum Lindl[#「Lindl」は斜体]. のヤマユリとは別種で同名)ともいわれる。その学名は従来 Lilium japonicum Thunb[#「Thunb」は斜体]. が用いられていたが、この名前づらが他のユリと重複するというので、当時京都帝大の小泉源一《こいずみげんいち》博士がかつてこれを Lilium Makinoi Koidz[#「Koidz」は斜体]. と改訂して発表したことがあった。
 小野蘭山《おのらんざん》の『本草綱目啓蒙《ほんぞうこうもくけいもう》』(享和三年(1803)刊行)にそのササユリの形状を次のように書いてあって、すこぶる分りやすいからここに転載する。

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春旧根ヨリ生ジ円茎高サ三四尺直立ス葉ハ竹葉ノ如クニシテ厚ク光アリ故ニサヽユリト呼ブ五月茎梢ニ花ヲ開クコト一二萼年久シキ者ハ五六萼ニ至ル皆開テ傍ニ向フ六弁長サ四寸許弁ノ本ハ聚テ筒ノ如ク末ハ開テ反巻ス白色ニシテ微紫花後実ヲ結ブ形卵ノ如ク緑色熟スル時ハ内ニ薄片多シ即其子ナリ其根ハ白色ニシテ弁多ク並ビ重リテ蓮花ノ如シ食用ニ入ルユリネト呼ブ
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 土佐高岡郡佐川町付近の山地にササユリの一変種がある。普通のササユリよりは小形であるが、土地ではやはりササユリと呼んでいる。その花の咲いている時分に山村の人が根を連ね十本くらいを一束として市中に売りに来ていたが、今日はどうだろうか。その根を薬用食にせんがためで、これを食すると痰が取れるといっている。これは私の子供の時分のことであったから今からざっと七十年余り[#「七十年余り」に「ママ」の注記]も前のことに属するが、今日では最早そういうことは昔話になっているのかも知れない。これはササユリの小形な一変種で葉緑がやや白く、私はこれをフクリンササユリと名づけておいたが、ヒメササユリと別称しても悪くはない。
 岩崎灌園《いわさきかんえん》の『本草図譜《ほんぞうずふ》』巻之四十八に、ササユリの一名として、サク(豆州三倉島方言)、イネラ(八丈島方言)の名が挙げてあるが、このサクとイネラとはサックイネラでこれはサクユリ(Lilium platyphyllum Makino[#「Makino」は斜体])の名であってササユリの名ではない。

[#「百合(『植物名実図考』)シナシロユリ一名白雪ユリ(Lillium sp.)」のキャプション付きの図(fig46820_04.png)入る]

  キャベツと甘藍

 キャベツ、すなわちタマナを甘藍《カンラン》だというのは無学な行為で、科学的の頭をもっている人なら、こんな間違ったことはしたくても出来ない。
 いったい甘藍とはどんな蔬菜かといってみると、それは球にならない、すなわち拡がった葉ばかりの Brassica oleracea L[#「L」は斜体]. で、その中の var. acephala DC[#「DC」は斜体].(無頭すなわち無球の意)がこれにあたる。すなわち前々から葉牡丹《ハボタン》といっているものである。これはその葉が牡丹の花の様子をしているからそういうのである。これは結球しない品だからこの品を呼ぶハボタンをタマナすなわちキャベツに用うべきでない。ゆえに甘藍はキャベツすなわちタマナではあり得ない。
 右のキャベツすなわちタマナは Brassica oleracea L[#「L」は斜体]. の中のものではあるが、これは葉が層々と密に相包んで大きな球になる品で、学名でいえば Brassica oleracea L[#「L」は斜体]. var. capitata L[#「L」は斜体].(この capitata は頭状の意)である。
 キャベツはキャベージ(Cabbage)の転化した言葉である。この Cabbage とは大頭の意であって、これは熱帯椰子類の数種の新梢芽が頭状に塊まっているので、本来はそれを Cabbage といったものだ。そしてこの嫩芽《わかめ》は食用になるものであって原住民は常にそれを食べている。そこで Brassica oleracea L[#「L」は斜体]. var. capitata L[#「L」は斜体]. へこの Cabbage の名を借り来ってそのタマナを Cabbage といったものだ。それがすなわちキャベツである。中国ではこのタマナを椰菜《ヤサイ》と称する。それはもと Palms すなわち椰子類のものが Cabbage であるから、それでこれを椰菜としたものだ。が、この椰菜の名はあまり我国では使用しなかった。ただしその椰菜へ花の字を加えて花椰菜《ハナヤサイ》となし、それをハボタンの一種なる Cauliflower の訳字となし、これは今日でも普通に用いている。今それを学名で書けば Brassica oleracea L[#「L」は斜体]. var. botrytis L[#「L」は斜体]. である。(botrytis とは群集して総《ふさ》をなしている状を示す語)。
 以上のようなイキサツであるから、このタマナ、すなわちキャベツを甘藍とするのは見当違いであることをよく知っていなければならない。古い学者、技師連などは古い書物に書いてある間違いの影響を受けてその誤りを引き継ぎ、今日でもなお甘藍をキャベツ、すなわちタマナと思っているのはまことにオメデタイ知識の持主であって、憐れ至極な古頭の人々である。総体物は正しくいわなければいかん。知識の奥底を見透かされるのはいっこうにゴ名誉ではござんすまい。

  藤とフジ

 世間一般に昔から藤をフジとしているが、しかし千年あまりも昔に出来た我国で一番古い辞書の『新撰字鏡《しんせんじきょう》』(僧|昌住《しょうじゅう》の著)にはまだこれをフジとはしていなくて、それを※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]としてある。これは中国の書物の『説文《せつもん》』に従ったものであろう。※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9](音ルイ)とはツルすなわちカヅラのことで、それは藤の字の本義である。したがって藤はカヅラである。『玉篇《ぎょくへん》』には「※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]ハ藤也」とあり、また「藤ハ※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]也、今草に莚シテ※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]ノ如キ者ヲ惣テ呼ブ」とある。また『大広益会玉篇《だいこうえきかいぎょくへん》』にも同じく「※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]ハ藤也」とあり、また「藤ハ艸木ニ蔓生スル者ノ惣名ナリ」ともある。また右の『大広益会玉篇』の和刻本(日本での刻本)には※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]の字のところに「※[#「くさかんむり/儡のつくり」、第4水準2-87-9]ハ藤也」とある右側にフヂカヅラ、左側にクヅフヂの訓が施してある。これは多分今いうフジのカズラ、クズ(葛)のカズラの意でつけたものと想像して可とも思われる。
 本来藤はカズラ、すなわちツルのことであるから、今日花を賞するあのフジは藤の一字を用いたのではそのフジすなわち Wisteria(Wistaria)のフジにはならない。紫藤と書いて藤の上に紫の形容詞を加えてはじめてフジになるのだが、じつはこの紫藤は中国産であるシナフジ(Wistaria sinensis Sweet[#「Sweet」は斜体])の名で、今それを日本産のフジに適用することは出来ない。日本にはフジが二種あって、一つはノダフジ(Wistaria floribunda DC[#「DC」は斜体].)、一つはヤマフジ(Wistaria brachybotrys Sieb[#「Sieb」は斜体]. et[#「et」は斜体] Zucc[#「Zucc」は斜体].)で、この二つの品の総称がフジである。そしてこの二種は日本の特産で中国にはないから、したがって中国の名すなわち漢名はない。ゆえに日本のフジを紫藤と書くのは間違っていることを承知していなければならない。

  ヤマユリ

 関西各地に多いササユリ(Lilium Makinoi Koidz[#「Koidz」は斜体].)にも昔からヤマユリの一名があるが、今日普通に世人のいっているヤマユリは関東地方に多いユリであって、Lilium auratum Lindl[#「Lindl」は斜体]. の学名を有する。花は七、八月頃にひらき大形で香気多く、白色で花蓋片の中央部に黄を帯び紫褐点のあるのが普通品であるが、また紅色を帯ぶるものもある。そしてその色の濃い品を特に紅《ベニ》スジと称して珍重する。
 このユリの鱗茎、すなわち俗にいうユリ根は食用によろしい。ゆえに昔から関西各地では特に料理ユリの名がある。またさらに吉野ユリ、宝来寺ユリ、多武《タブ》ノ峰《ミネ》ユリ、叡山ユリの名もある。また浮島ユリとも箱根ユリともいわれる。
 徳川時代にはこのユリをヤマユリの名では呼んでいなかったが、後ちこのヤマユリの名が段々東京を中心としてひろがって、普通一般の呼び名になったのは明治以降のことに属する。今日の人々はなにかと言えば直ぐヤマユリを持ち出すけれど、このヤマユリの名は近代において普通に幅を利かすようになったものである。それ以前は前記の通り料理ユリなどの名で呼んでいたのである。また徳川時代に出版になった『訓蒙図彙《きんもうずい》』や『絵本野山草《えほんのやまぐさ》』などにはオニユリ(巻丹)、ヒメユリ(山丹)、スカシユリ、カノコユリなどはあっても右のヤマユリの図は出ていない。
 このヤマユリは万葉歌とは全く関係はない。万葉歌と縁のあるものは主としてササユリ、オニユリ、ヒメユリである。多分コオニユリも見逃されないものであろう。
 ヤマユリは日本の特産で無論中国にはないから、昔の日本の学者がいうようにこれを天香百合とするのはもとよりあたっていない。

  アケビと※[#「くさかんむり/開」、16-11]

 人皇五十九代|宇多《うだ》天皇の御宇、それは今から一一〇五年の昔|寛平《かんぴょう》四年(892)に僧|昌住《しょうじゅう》の作った我国開闢以来最初の辞書『新撰字鏡《しんせんじきょう》』に「※[#「くさかんむり/開」、16-13]、開音山女也阿介比又波太豆」と書いてある。昌住坊さんなかなかサバケテいる。
 大正六年に東京の
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