栗」と出ている。次にかつて私の書いた土佐三度グリの記事を掲げてみよう、すなわち三度グリとはこんなものである。
 土佐に三度グリというクリがあって『土佐国産往来』にも出ている。明治十四年(1881)私が二十歳の時の九月に、植物採集のため同国|幡多《はた》郡佐賀村大字|拳《こぶし》ノ川《かわ》の山路を通過した際その辺で実見したが、しかしそれは敢えて別種なクリではなかった。すなわちそのクリは野山に生えているのだが、そこは毎年土人が柴を刈る場所で春先きになると往々その山を焼くのである。それゆえそこに生えている雑樹は刈られ焼かれて、ただその切り株だけが生存し、年々それから新条が芽出つのである。それゆえその株は往々太い塊をなしている。そしてこの株から芽出ったクリの新条は直立して春夏秋とその生長を続け、夏秋の候にその新梢へあとからあとからと花穂が出て花を開き、雄花穂軸の本には少数の雌花があって毬彙《イガ》を結び、一条の枝上に新旧の毬彙が断続して着いているのが見られる。元来クリは普通にはただ一度梅雨の時節頃に開花するだけだが、上述のものは夏から引き続いて秋までも花が咲く、すなわちそれはその新条が絶えず梢を追うて生長するからである。ゆえにこんなのは三度グリともいい得れば、また七度グリとも十度グリとも十五度グリともいい得るのである。このように年々歳々その切株から芽出たせば、上のようにじつに無限に連続的開花の現象を現わすが、もし一朝その樹を刈らず伐らずして自由に生長させると、敢えて常木と異なるところのない凡樹となり、ついにその特状が認められなくなってしまう。我国各地に三度グリだの七度グリだのと呼ぶものは大抵こんな状態のものである。しかしたまには老木になっても年に二度開花する変わりものがあることが知られたが、今その珍らしい一例は、相州箱根宮城野村なる勝俣某の邸内にあるもので、これはかつて沢田武太郎君(今は故人となった)が昭和三年九月発行の『植物研究雑誌』第四巻第六号で写真入りで報ぜられているが、また同様なものが信州下伊那郡大鹿村大河原にもあるとのことである。
 伊予の国の某村にも右の土佐の三度栗と同様なものがあって、昭和六年の秋私が同国へ赴いたとき土地の人がそこを天然記念物保護地にしたいとの希望で、私の意見を求められたことがあったが、私は言下にそれは無駄だからヨセといって止めさせた。なぜなれば、もしそこを保護してそのクリを伐らなかったならば、たちまちその三度グリたる現状態が見られなくなるからであった。そしてこんなクリはやはり野に置けでないとその天真を失ってしまうことになる。
 右のような小木のクリを南京栗《ナンキングリ》というと伊藤|伊兵衛《いへい》の『地錦抄付録《ちきんしょうふろく》』に出ている。一体姿の小さいものを南京鼠のように南京と呼ばれる。三度栗も樹が小さいからそれでこの名がある。
 上のいわゆる三度グリと同様のものは、春に山を焼く場所にはどこにも見られ、敢えて珍らしいものではない。私は先年肥後葦北郡水俣の山地でもこれを見たのだが、同地にも普通に多く生長して多数な毬彙《イガ》を着けていた。その中に特にその毬彙が紫色を呈したものがあって私の眼を惹いた。そこでそれを採集し、それにイガムラサキの新和名と Castanea crenata Sieb[#「Sieb」は斜体]. et Zucc[#「et Zucc」は斜体]. forma purpurea Makino[#「Makino」は斜体](Burs purple)の新学名をつけておいた。
 三度グリについて小野|蘭山《らんざん》の『本草綱目啓蒙』巻之廿五、栗の条下に「マタ越後ニ三度グリアリ大和本草ニヤマグリト云[牧野いう、『大和本草』にこの名は見えない]石州ニテ カシハラグリト云|茅栗《ボウリツ》ノ類ニシテ年中ニ三度実ノルト云越後ノミナラズ石州予州土州上野下野ニモアリト云」と出ている。そしてこれらも元来はシバグリの内のものであって、このシバグリについては同書に「又シバグリアリ一名ササグリ(和名鈔)ヌカグリ[牧野いう、漢名|糠栗《コウリツ》に基づいての名だろう]モミヂグリ木高サ五六尺ニ過ズシテ叢生ス房彙《イガ》モ小ナリソノ中ニ一顆或ハ二三顆アリ形小ナレドモ味優レリ是茅栗ナリ」と書いてある。
 貝原|益軒《えきけん》の『大和本草《やまとほんぞう》』巻之十、栗の文中には「※[#「木+而」、第4水準2−14−58]栗《ササグリ》サヽトハ小ナルヲ云小栗ナリ又シバクリト云爾雅ノ註ニ江東[#(デ)]呼[#(ブ)][#二]小栗[#(ヲ)][#一]為[#二]※[#「木+而」、第4水準2−14−58][#(ジ)]栗[#(ト)][#一]|崔禹錫《さいうしゅく》食経ニハ杭子ト云ヘリ春ノ初山ヲヤケバ栗ノ木モヤクル其春苗ヲ生ジ其秋実ノル地ニヨリテ山野ニ※[#「彳+編のつくり」、第3水準1−84−34]ク生ズ貧民ハ其実ヲ多トリテ粮トス筑紫ニ多シ庭訓往来《ていきんおうらい》ニ宰府ノ栗ト云是ナリ蘇恭《そきょう》ガ茅栗細[#(ニシテ)]如[#二]橡子[#(ノ)][#一]ト云シモシバクリナルベシ」と述べてあるが、これはいわゆる三度グリに当っている。
 寺島良安《てらじまりょうあん》の『倭漢三才図会《わかんさんさいずえ》』巻之八十六、栗の条下に「上野下野越後及紀州熊野[#(ノ)]山中[#(ニ)]有[#(リ)][#二]山栗[#一]小扁[#(ク)]一歳[#(ニ)]|再三《フタタビミタビ》結[#レ]子[#(ヲ)]其樹不[#二]大木[#(ナラ)][#一]所謂[#(ル)]|茅栗《ササクリ》是[#(カ)]乎」と書いてあるが、これも三度グリを指したものだ。
 およそ二百五十年前の嘉永三年(1850)に上梓せられた『桃洞遺筆《とうどういひつ》』第二輯に三度栗の記事があって次の通り書いてある。すなわち「又三度栗あり、本朝食鑑(四巻)に、上野州下野州有[#二]山栗[#一]極小、一年[#(ニ)]三度収[#(ム)][#レ]栗[#(ヲ)]、故[#(ニ)]号[#二]三度栗[#一]といひ、因幡志(巻二末)に、法美《ハフミ》郡宇治山に産すといひ、紀伊続風土記(巻六十九)に、牟婁郡|栗栖《クルス》[#(ノ)]荘芝村、又(巻七十二)同郡|佐本《サモト》[#(ノ)]荘西栗垣内村、又(巻八十)同郡三里郷一本松村等に産する事を載す、此外越後、信濃、石見、土佐、筑前等にも産す、一名山グリ(詩経名物弁解)梶原グリ(石見)といふ、大抵牟婁郡に産する物は、其山を年々一度づつ焼く、其焼株より出る新芽に実のるなり、七月の末より、十月頃まで、本中末と三度に熟するを云なり、三度花を開きて実を結ぶ物にはあらず、皆其地の名産とすれど、何れの国にも産するなるべし」である。
 右の『桃洞遺筆』に引用されている『本朝食鑑《ほんちょうしょっかん》』(小野必大《おのひつだい》の著、元禄十年1697出版)巻之四の文を仮名交りに書いてみれば、「上野州下野州ニ山栗アリ極メテ小ニシテ一年ニ三度、栗ヲ収ム故ニ三度栗ト号ス其味ヒ佳ナラズト為サズ此|類《タグヒ》ノ山栗ハ諸州ニ在レドモ亦極メテ小キナリ是レ古ヘノ※[#「木+而」、第4水準2−14−58]栗《ササクリ》乎」である。
 元来栗は中国の産である、クリこそは日本にあるが栗は日本にはない。学名でいえば中国の栗は Castanea mollissima Blume[#「Blume」は斜体]=Castanea Bungeana[#「Castanea Bungeana」は斜体] Blume)であって Chinese Chestnut の俗名を有し、和名はシナグリ(支那グリ)一名アマクリ(甘クリ)であり、日本のクリは Castanea crenata Sieb[#「Sieb」は斜体]. et Zucc[#「et Zucc」は斜体]. であって Japanese Chestnut の俗名をもっている。そして中国の栗は同国の特産で日本には産せず、日本のクリは日本の特産で中国には産しない。だから中国の書物にある※[#「木+而」、第4水準2−14−58]栗または杭子を我がサヽグリにあて、茅栗を我がシバグリにあて、板栗を我がタンバグリにあて、山栗を我が中《チュウ》グリにあてるのはみな間違いで、これらはことごとく支那栗すなわち甘《アマ》クリの内の品種名たるにほかなく、断じて我が日本のクリに適用すべき名ではないことを銘記していなければならない。
 搗《カチ》グリというものがある。カチとは舂《つ》くことで、すなわちクリの実を干し搗いて皮を去りその中実《なかみ》(胚を伴うた子葉)を出したものである。それには普通にシバグリを用うる。シバグリとは柴グリの意で小さいクリである、すなわち上の三度グリなどはみなシバグリであり、三度グリならずとも野山のクリにはシバグリが多い。たとえその樹が高大になってもシバグリはやはりシバグリたることを失わない。これについて上の『本朝食鑑』栗の条下に次の如く書いてある。今分り易く原漢文を仮名交り文にする。「搗栗《ウチクリ》加知久利《カチクリ》ト訓ズ、熱栗ノ連殻ヲ取テ日日晒乾シ皺ムヲ待テ内チニテ鳴ル時、臼ニ搗テ紫殻及ビ内※[#「さんずい+(嗇/一)」、248−17]皮ヲ去ルトキハ、則チ外ハ黄皺、内ハ潔白ニシテ堅シ、其味ヒ極メテ甘シ、若シ軟食セント欲セバ則チ熱湯ニ浸シ及ビ熱灰ニ※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]シテ軟キヲ待テ食シ以テ乾果ノ珍ト作ス、山栗ノ微小ナル者ヲ用テ之レヲ造ルモ亦佳ナリ、或ハ断肉蔬※[#「歹+(餐−殄)」、第4水準2−92−50]ノ時搗栗ヲ以テ鰹節ニ代フレバ能ク甜味ヲ生ズ、今正月元日及ビ冠婚規祝ノ具之レヲ用テ以テ物ニ克ツノ義ニ取ル、古ヘハ丹波但馬ヨリ主計寮ニ献ズ、近代ハ江東ニ多ク之レヲ造ル、京師海西ニ伝送シ最モ美ト称ス、今丹但ノ産甚ダ少クシテ好カラザル也、一種打栗ト云フ者アリ、好搗栗ヲ用テ蒸熟シ布ニ裹ミ鉄杵ヲ以テ徐徐ニ之レヲ打テ平団ナラシメ、而シテ青栢葉ニ盛テ以テ珍ト為ス、此レ本朝式ニ所謂平栗子耶或ハ曰ク搗栗ハ脾胃ヲ厚クシ腎気ヲ滋スノ功最モ生栗ニ勝レリ、好デ食スベシト、此モ亦理アルニ似タリ」
 右『本朝食鑑』よりずっと後に出版せられた『倭漢三才図会』によれば、「老《ヒネ》タル栗ヲ用ヰ殻ヲ連ネテ晒乾シ稍皺バミタル時臼ニ搗《ツ》キテ殻及シブ皮ヲ去レバ則チ内黄白色ニシテ堅ク味甜ク美ナリ或ハ熱湯ニ浸シ及ビ灰ニ※[#「火+畏」、第3水準1−87−57]シテ軟キヲ待テ食フモ亦佳シ或ハ食フ時一二顆ヲ用テ掌ニ握リ稍温ムレバ則チ柔ク乾果ノ珍物ト為ス也以テ嘉祝ノ果ト為スハ蓋シ勝軍利《カチクリ》ノ義ニ取リ武家特ニ之レヲ重ンズ」(漢文)と書いてあるが、これは主として前の『本朝食鑑』によって書いたものである。
 ここに珍らしいクリにハコグリ(箱グリの意)というのがあって、まれに見受けられる。『本草綱目啓蒙』栗の条下に「江州ニ一毬ニ七顆アルアリ、ハコグリト云毬ノ形四稜ニシテ闊シ」と書いてある。岩崎灌園《いわさきかんえん》の『本草図譜《ほんぞうずふ》』巻之五十九にそれが出ているが、その図は良好であるとはいえない。江戸で六角トウというと書いてあるが、これはどうも灌園がその図によってよい加減に拵えた名であると私は感ずる。
 このハコグリが今東京都練馬区東大泉町五百五十七番地なる私宅の庭に育っている。これは藪を切り開いてこの宅地を設けるとき、偶然その樹を藪中に発見したので、これは珍らしいと保存したものである。その毬彙《イガ》はシバクリ式で小さく、まだ熟せぬ前からそれが開裂してまだ緑色の堅果を露出している。堅果は小形で中央に三顆一列に相並び、その左側に二顆、右側に二顆、都合七顆が相接して箱の中、いや毬彙内に詰っている。まれに八顆あることもある。熟すと無論栗色を呈する。その学名は Castanea crenata Sieb[#「Sieb」は斜体]. et Zucc[#「et Zucc」は斜体]. var. pleiocarpa Makino[#「Makino」は斜体] 
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